[歴史] 平将門(4)−5江戸東京の将門伝説

だいぶ寄り道して将門伝説の話が中断しておりましたが、やっとの事でお江戸東京の将門公御由緒の場所を訪ねて見ました。
日本国の中心”東京”、そのまた中心の大手町界隈の遺構に平将門首塚があります。最先端の高層ビルオフィス街には可なり異端な存在にみえますが、現在に至る過程で数度に亘る整理移転の作業は怨霊の祟り?…とおぼしき事故で諦め、将門遺構を鎮魂して地域の安泰を祈願する場所として存続しているようです。将門の「天慶の乱」はゆうに1080年前、天慶3年(940)の事で最早伝説的歴史の色合いがありますが話しを追跡してまいります。……
関八州坂東を制覇し新皇を名乗る将門でしたが俵藤太こと下野国押領使藤原秀郷」が4千の大軍を率い貞盛軍と協力し将門の本拠地岩井(茨城県)島広山にある石井営所を奇襲され流れ矢に当り将門は敢え無く戦死します。…その首は京都に送られ晒されますが、将門の晒し首は更なる一戦を交えんと失われた胴体を求めて眼を剥き見開いて飛び去ったと伝えられ、落下したのが武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた大手町の将門首塚の地でした。 

photo…大手町 平将門墓(首塚当時関東には桓武平氏の豪族、坂東八平氏が割拠し、その一つ秩父氏が当地付近に館を構えたとされ、のち江戸氏と改名し、大田道灌に敗れるまで支配したとされていますが、桓武平氏下総鎮守府将軍平良将の子将門との直接関係はないとすれば、大手町に首が落下する必然性は見当たらず僅かに、もう一飛で胴体の埋められた岩井があるのですが?
……ここからは私の多分…だろう、の話ですから悪しからず……天慶の乱後豊嶋郡芝崎村(大手町)に落雷とか隕石落下など大きな痕跡を残す事象が在ったのか?、…はたまた疫病大流行など将門怨霊を想起させる事が起きたのかもしれません、…同時代に起こった有名なお話は菅原道真公が朝廷内の出来事、藤原氏に謀られ冤罪されて大宰府で流刑死に果て、道真怨霊による事件が多発し怨霊鎮魂の北野天満宮建立の話が残されております。
同時代の社会心情を勘案すれば当然の結末として将門公怨霊鎮魂の神社建立と云う筋書きが見えてまいります。…当地に平将門命が祀られた神田明神が存在した道理となります。なお当時の社名は不明ですが、……この神田明神は、その後徳川家康公江戸入府、江戸城整備で慶長8年(1603)駿河台に移転を経て現在地千代田区外神田(元和2年-1616-)で神田明神社を名乗ります。主神平将門命ですが、江戸の町方など更なる信者サービスとして、大黒さま、恵比寿さまを御祭神に加え、関東即ち坂東の英雄”平将門命”は江戸民衆の心を掴んでいるのでしょうか……

photo…江戸総鎮守神田明神それでは駿河台、神田川の向こう側、江戸総鎮守神田明神にまいりました。ここのお社も関東大震災で焼失、再建では不燃化され昭和の東京大空襲では焼けずに残された建物です。
古代より、天地開明以来の現象自然を畏敬の対象とした素朴な日本の神様も中世以来は伝来仏教の影響を受け宗教的に発展し貴族民衆事如く仏の救済を求める時代となり、神々の世界も伊勢神宮を始めとして神宮寺が境内に建立されるまでになり神様は仏教的な解釈から、明神社、大明神社、権現社、大権現社、妙見宮、天王社、祇園社などと名乗ってまいりました。……
現在の「○○神社」に統一したのは明治新政府国家神道政策の強制によるものです。当社も「神田神社」が正式名ですが、さすが、江戸っ子は総鎮守神田明神は神田明神なのでしょう。…恵比寿、大黒、将門と三御祭神が揃い、毎年恒例初詣は会社社員一同がうち揃い商売発展祈願の波が途絶えません。……
さて最後に残されたのが屈指の有名大寺院「成田山新勝寺」お不動さまです。しかしこの大寺院と云えども”平将門公”無りせば永久に存在し得なかったのです。……なぜか!…天慶の乱に驚愕した朝廷、朱雀天皇は寛朝僧正に不動明王を捧持させ下総国公津ケ原(成田)に遣わせ護摩祈祷をさせて”将門の乱”を鎮撫成就した事になっておりますが、その不動明王像が当地に残り成田山新勝寺創建の御本尊となったそうです。なお千葉県九十九里海岸横芝付近の尾垂浜(おたれはま)には、この不動明王仏像が上陸した場所とされる歴史伝説(石碑)があります。…… ……先へつづく… ……前へ戻る

平将門(5) 相馬中村藩と相馬野馬追い、足尾銅山
(4) 江戸東京の将門伝説
(3) 取手宿本陣、高瀬舟河岸(川湊)
(2) 平将門と取手市風土記
(1) ゆかりの坂東、取手と岩井探訪