[歴史][地域] 豪徳寺(世田谷区)周辺(2)−2 代官屋敷とボロ市

前回のお話、豪徳寺の近くにある東急世田谷線上町駅は昔は玉電上町と呼んでおりましたが、駅の南の高台に今では珍しい茅葺屋根の代官屋敷があります。


     

photo-世田谷代官屋敷
その代官屋敷前の道が旧大山街道で江戸、明治の時代には秦野の大山雨降山神社(大山石尊大権現)詣での大山講が白装束振鈴姿で通った旧街道です。

この一帯は既に御案内のように松蔭神社、豪徳寺、世田谷城、代官屋敷、ボロ市、旧大山街道などがあり世田谷区の歴史ゾーンが構成されております。
更に世田谷通りの先、至近の場所には馬事公苑がありますが、ここも昭和16年開催予定が太平洋戦争勃発で幻になった東京オリンピックの馬事競技用に建設された施設で、即ち馬事公苑です。現在もよく整備された広大な施設です。公苑と世田谷通りを挟んで東京農大のキャンパスです。 ここも敗戦以前は帝国陸軍の自動車学校と私達は呼んでおりましたが、陸軍機甲整備学校と改称していた様です。 東京農大が旧地、渋谷4丁目(常盤松)で昭和20年5月の空襲で罹災し土地を青山学院に売却し当地に戦後移転、この軍施設の木造兵舎を校舎に活用し、現在の大学本部が設立されたのです。……
だいぶ寄り道いたしましたが、世田谷代官屋敷に移ります。 ま、東京広しと云えども代官屋敷遺構が原形を保ち保存されているのは世田谷が唯一のものでしょう。 屋敷内は公開され、お白州跡や黒光りする建物内部の見学もできます。

photo-代官屋敷内部
世田谷代官屋敷由来とは……やはり世田谷城主吉良氏(下野足利氏傍流)と彦根藩主井伊家に拘わっております。 後北条、小田原北条氏の時代、吉良氏は世田谷郷を中心に多摩、入間、新座を勢力圏としますが、豊臣秀吉により北条氏が滅亡しますと吉良氏も領地を徳川家康に没収され世田谷城は廃城になります。 寛永16年(1633)世田谷郷は将軍家屈指の親藩彦根藩主井伊氏に加封され世田谷区域は言うに及ばず狛江市和泉の多摩川畔一帯迄も含まれる領地です。 この井伊氏領地の代官に任じられたのが、世田谷城主吉良氏の重臣で帰農していた大場信久の孫にあたる盛長です。世田谷郷をよく知る人物として取立てたのでしょう。 以後大場家は明治の御一新まで代官を世襲しております。
この建物は宝暦3年(1753)建築の茅葺建坪255平方m、二階部分は嘉永4年(1851)に増築されたものです。隣接して世田谷郷土資料館もあり歴史好きにはかなり充実です。……
今年も既に十月末になりました、年の暮は世田谷名物ボロ市でしょう。 代官屋敷前の道が旧大山街道、一名ボロ市通りです。
ボロ市の由来は?……世田谷城主が仕えた小田原北条氏政天正6年(1578)世田谷宿などの振興を目的にした”楽市掟書”が存在し、これがボロ市の始り説があります。 高齢者と云われる私が、かなり昔に見たボロ市は地面に莚やゴザなどを敷き衣類、古着、履物、瀬戸物、農具、古道具、特に餅つきの臼杵は必ずありました。大分今の風景とは乖離していると思いますが!、更に私が聞いたか、読んだか忘れましたがショッキングのお話とは、…ボロ市名物”馬の塩辛”…馬は店の屋号ではありません四足の動物の事、製造者はお百姓さんか?、ハサミで切って食べるそうで、馬の何処の部分なのか?、……魚はイカ、カツオの塩辛に始まって”くさやの干物” 魚醤、鮒寿司などかなり強烈なものまでありますから、馬、牛の類にも色々と工夫した利用法があっても当たり前の事ですが?、つらつら考えて見ますと案外現代風な食べ物かも、多分の話ですが、ホルモン焼き屋とか焼肉屋の酒のお通しに最適?、…が…未だに”馬の塩辛”存在の真相は分らないのです。! 
 ……前へ戻る

《世田谷豪徳寺(2) 代官屋敷とボロ市
(1) 彦根藩主塋域と井伊直弼