[地域][歴史] 東京都市災害(4)−6  東京大洪水と荒川、隅田川

前回の利根川流路の話から既に私達が実感している世界的な天候異変は、更なる温暖化現象の加速で世界各地で顕著になってまいりました。 
そこで東京と深い係わりのある荒川、隅田川との因果と現実を知ろうと、早速国交省荒川下流河川事務所の施設「荒川知水資料館」見学となりました。

    

上)旧岩淵赤水門近代化土木遺産
下)荒川流路、左は隅田川分流、右は放水路(荒川本流)


では東京都の洪水防災の重要機能である荒川放水路開削の発端となった東京大洪水とは……明治43年(1910)8月2〜3日に亘る豪雨による降水量は埼玉県名栗では1216mmに達し荒川は各地の堤防溢水、決壊で東京は大洪水に見舞われ俗に下町と云われた上野、浅草、本所、深川は泥の海と化し、荒川下流部一帯の被害は全壊家屋は1679戸、浸水27万戸、被害者150万人、死者369人に達し、首都の機能は半月以上も失われました。
壮大な大洪水対策事業荒川放水路は翌年44年(1911)に着工し昭和5年(1930)に赤羽岩淵から旧中川河口の東京湾まで全長22kmが完成し、隅田川に流れ込んでいた旧荒川本流は岩淵に水門を設置して荒川増水時の流入を完全にブロックして新設放水路から東京湾に放流されます。 完成以後、隅田川の氾濫は起こっておりません。
…関東の大河川、利根川、荒川、江戸川の歴史は徳川幕府の河川管理事業による瀬替え、開削、締切りなどで既に人工河川化しその骨格が明治新政府に受け継がれており、荒川につきましても流路変遷の経緯があります。 江戸幕府初期時代の荒川は熊谷下流久下村から現在の元荒川筋を流れ埼玉県吉川附近で古利根川に合流、更に流れは鐘ケ淵附近で入間川と合流して隅田川と名前を変えて江戸湾に放流されます。現在の荒川は寛永6年(1629)幕府は久下村附近で旧荒川を締め切り南下流路を開削、和田吉野川に流し込み流れは更に入間川筋に接続合流させて岩淵経由で荒川放水路を経て東京湾は放流します。一方現在の岩淵水門を流頭とする隅田川とは昔の荒川本流の下流域の名称です。

    
              

上)荒川と隅田川分岐の俯瞰 下)現、隅田川への分流水門


話は戻りまして荒川知水資料館は現在の荒川(放水路)が隅田川への分流地点で隅田川への流入調整用の岩淵大水門がある地内に隣接してあります。
この一帯の河川敷は近代化遺産となった放水路竣工時の赤水門を核として現用の青水門を望み、洋々たる大荒川の流れを満喫できる広大な自然公園となっております。……
私は近代的河川管理下にある荒川、隅田川の認識から東京大洪水は既に忘れ去られた事と考えてまいりましたが、荒川知水資料館見学から得た知識とは?、……国交省荒川下流河川事務所の展示は異常気象に伴なう荒川異常増水による堤防溢水、決壊で都民生活の危機を可なり深刻に警告しております。 都市機能の重要部分、特に交通機関の中枢地下鉄路線網の打撃は大きく、5m程度の洪水で都心部路線の殆どが満管(全水没)丘陵地帯の霞ヶ関、六本木、赤坂は地表の洪水なしでも路線内には浸水が起こり、地下鉄17路線97駅線路延長147kmに流入予想があるのです。
次が地盤沈下の増速は激しく都内0m地帯は河川水面より更にマイナスとなっており、…海外旅行で0m国オランダ水の都ベニスでゴンドラを楽しんでいる場合ではない様です。特に東京0m地帯は日常の状態でも水門、河川堤防を廻らせ揚水ポンプの施設で日常生活がありますが、より深刻なのは地震災害かも知れません。……地震による水門、堤防の破壊、電源の喪失は深刻な事態があります。 荒川、隅田川下流部は東京湾と接し、かなり上流まで汽水区域です。海の潮汐による堤防破壊部分からの海水流入滞水は更なる深刻なものがあります。

また、洪水の原因気象状況は現代の予報技術と機材の発展があり、降水量の確認とその地域を見極めることで危険性は推測が可能かも知れません。 
異常降雨の降水量、持続時間、日数とその範囲……限定地域か、広域か、山間、平野、更に関東地域全般の異常降雨などである程度判断出来るかも知れません。……先へつづく… ……前へ戻る

《東京都市災害》
(6) 日本堤はお江戸の防災拠点
(5) 荒川大規模水害東京地区の想定データ
(4) 東京大洪水と荒川、隅田川
(3) 海中都市東京
(2) 江戸東京の災害
(1) 東京災害と空襲