[探訪][地域] 横須賀事情(5)−9 横須賀と芥川龍之介

既に横須賀のMSDF(海上自衛隊)とUS NAVY絡みのお話はブログに記載いたしましたので、今回は武ばった土地柄に一輪の花を添える話から始めます。 と、なると芥川龍之介の海軍機関学校英語教官時代の作品ですが特に印象に残った短編を転載してみました。
”蜜柑” 芥川龍之介 新潮文庫
『或曇つた冬の日暮である。私は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。………
………が、やがて発車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る声と共に、私の乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中へはいつて来た、と同時に一つづしりと揺れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云つてゐる赤帽――さう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。
私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶(ものう)い睚(まぶた)をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。………
……… しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。
踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索(しょうさく)とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。  彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。
するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。
私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆(いくか)の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
 暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。』………
だいぶ中略して名作を台無しにいたしました。
全文を是非とも"蜜柑"「フリー青空文庫」でお読みください。 この短編”蜜柑”に係わる芥川龍之介の文学碑は横須賀駅田浦駅の中間の線路脇にある吉倉公園にあります。
    
次は横須賀市に相応しい人物ウイリアム アダムズこと三浦安針夫妻の供養塔のある県立塚山公園です。 昔も今も世界屈指の軍港、その始まり横須賀製鉄所(造船所)を江戸幕末に計画、起工した幕臣小栗忠順の存在があります。 いみじくも司馬遼太郎が日本のあらゆる機械工学の源泉とまで云わせた横須賀市の恩人です。更に昔、江戸幕府開祖徳川家康公にヨーロッパと先進文明の存在を開眼させ、将軍家康の顧問役柄で信頼されたウイリアム アダムスこと三浦安針が横須賀に眠る経過とは、……

リーフデ号のスタンフィギア”エスラム木像”
1564年イギリス・ジリンガムに生まれた海軍士官、1598年6月オランダ東印度会社の東洋遠征船団の航海士としてリーフデ号に乗船しロッテルダムを出港マゼラン海峡(南米最南端)から太平洋を横断しモルッカ諸島インドネシア)に向かって航行中、大荒天に遭遇し九州臼杵に漂着、僚船4隻は沈没。船長、航海長ヤン、ヨーステンとウイリアム、アダムスらはその後、大阪城徳川家康に会いアダムズとヨーステンは知識人物が評価され、ヨーステンは丸の内、アダムスは日本橋に屋敷を与えられ幕府要人に航海術、天文学、数学、地理学などを教え、伊豆伊東では120トンの大型洋式帆船を建造します。また家康の西欧先進国との外交にも活躍して アダムスは幕府旗本三浦安針と名乗り250石の知行地を相模国逸見村(横須賀市逸見)に与えられております。しかしアダムスはイギリス帰国の機会を逸し家康の死後の幕府鎖国策で不遇の中1620年5月長崎平戸で没しました。

オランダ東印度会社マーク
…桜の名所、県立塚山公園(横須賀逸見)にある供養塔は彼の遺言で妻、お雪(マリア)と二基の宝筺印塔があります。 最寄り駅は京浜急行安針塚駅から山の上…私は若い頃、JR田浦駅から塚山公園への道筋に3年位下宿しておりましたが、残念御参りはしておりません。
さて、物は継いで三浦安針の屋敷跡は日本橋室町1−10、安針通りにささやかな石碑があります。見落とさない様に!、昔は安針町と呼ばれていました。
また、ヤン、ヨーステンは丸の内の外堀近くに屋敷を拝領しており、推測では東京駅構内附近か?、…現在の東京駅八重洲口の目の前に外堀が敗戦後まで流れており、江戸時代に堀の河岸をヤン、ヨーステンの日本名”耶楊子”(やようす)から八代洲(やよす)河岸と呼ばれ、転化して八重洲の地名が発生したとされております。 また、現丸の内2丁目には過って東京市麹町区時代には八重洲町がありました。……
……あの、一寸ああた、話はまだおわっておりませんが、…このアダムスとヨウーステンの乗ってきたオランダ船リーフデ号のスターンフィギア(船尾飾り)”デジデリウス・エラスムス”の木像が国立博物館に収納されており、そのレプリカが栃木県佐野市郷土博物館に常設展示されております。この博物館は足尾鉱毒事件で活躍した田中正造の出生地佐野市にあり、その豊富、貴重な展示資料の中には天皇直訴状の原稿なども在り田中さんを調べている方には一度は行くべき場所かも知れません。 ……先へつづく…  ……前へ戻る

《横須賀事情》(9) 横須賀のオンリーさん
(8) 洋パン嬢とオンリーさん
(7) 横須賀の落穂拾い 小栗忠順という日本人
(6) 横須賀の落穂拾い 横須賀の遊廓
(5) 横須賀と芥川龍之介
(4) 海上自衛隊の創設期とU.S NAVY
(3) 海軍遺構と長浦港自衛艦隊
(2) 横須賀帝国海軍の物語
(1) 横須賀 街の今昔