[歴史][天皇公家] 南北朝(3)−4 有史最大 朝廷と武家の”ゴッチャ混ぜ”闘争

最近は政治の世界で……「歴史と伝統」などと口当たりの良いコピーで戦前社会に先祖がえりを目論む党派か?、社会には更なる黒幕が存在するのか?、
……、では本題に戻りますが、室町時代は何故天皇家内部の相克が激化したのでしょう?、原因は天皇家の財政逼迫が顕著に現れ始めたのです。 古代先進の中央集権でも武士の台頭と国司荘園領主などのサボタージュや造反が影響して朝廷財源を侵食、縮小し、浮かれた殿上人天皇家公家を直撃するのです。一族の経済を護る率直な手段が皇統獲得でした。…
……が、調べるうち私には、その複雑、麻の如く乱れた争いの詳細追求は興味も、気力はさらに無いので簡単にさせて頂きます。…、
前回からの続き…、そこで北条幕府の調停案に従い南朝大覚寺統傍系の後醍醐天皇がピンチヒッターで登場します。この天皇様は艶福なお方で関係女性と出生男女数は歴代天皇のトップクラスです。 が、その多数の皇子を手勢に利用して皇統世襲の調整役北条幕府と父後宇多天皇に逆らい自らの子孫の皇位継承実現を目指します。 早速、幕府打倒を画策しますが正中元年(1324)討幕計画が幕府に発覚、その罪科は側近公家が取らされます。 さらに元弘元年(1331)2回目の討幕計画も発覚の憂き目となり、京都を脱出して笠置山に篭城した後醍醐天皇は幕府に捕まり、翌年隠岐島流罪となりました。 …元弘3年(1333)名和長年一族を頼り隠岐島脱出に成功、早速挙兵すると、新田義貞は呼応して鎌倉攻めへ、一方足利尊氏は幕府派遣軍として京都に進撃するも、北条幕府を見限り後醍醐天皇に寝返り、幕府京都六波羅探題を攻略します。新田義貞の鎌倉占領と併せ北条幕府は崩壊しました。……
後醍醐天皇は執念が成就しますと南朝大覚寺統嫡流、父の後宇多天皇の嫡子「邦良親王」を皇位継承から外し、父の遺言を反故にして傍流である自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にしました。 中国皇帝の手法に憧れがあったとされる自らの専制を始めます。「建武の新政」です。 

しかし、今まで進化した中央集権制度の組織を破棄し独裁政治への逆戻りですから、余程の才知能力が必要ですが、この人の情熱とは裏腹にその器でない結果を次々と露呈してゆきました。……
早速、天皇に呼応し「建武の新政」樹立に協力した武士団への恩賞不足や公家との不公平、更には武家既得権益の浸食をも始めて武士勢力の不満が充満します。 さらに貴族、仏教寺院の権益も侵害、…目的は朝廷役所など大建築工事を計画しますが武家、貴族、仏教など有力者は天皇の施政に背を向け始めるのです。……
後醍醐天皇の討幕成就後僅かの建武2年(1335年)に今度は北条氏の残党が決起し鎌倉を占拠し「建武の新政」で就任した鎌倉府将軍成良親王後醍醐天皇皇子)と補佐役足利直義(尊氏の弟)は脱出しましたが足利尊氏が出陣し鎌倉の北条勢を鎮圧します。この戦いは「中先代の乱」と呼ばれ、その内容は……即ち、足利尊氏は既に後醍醐天皇を見限り、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて北条氏の残党北条時行を討伐し鎌倉に入り、天皇と係わりなく恩賞を与えたり、天皇から京都帰還命令も無視、自らの政権樹立に動き出します。  

ちょっと寄り道…、この争乱で戦前国史教科書の護良親王(もりながしんのう)の虚飾話しがありますが、…現在の実歴とされる話では……多数いた後醍醐天皇の皇子の一人で、天皇鎌倉幕府討伐計画行動に参加し活躍した武闘派皇子です。「建武の新政」の恩賞で征夷大将軍に任じられましたが、討幕功労者の足利尊氏と常に葛藤があり尊氏暗殺未遂事件をおこしたり、更にその行状は父後醍醐天皇から皇位簒奪の疑念を持たれて天皇の命令で逮捕、鎌倉に幽閉されます。 「中先代の乱」で鎌倉府将軍「成良親王」が北条時行に鎌倉を追われる時に幽閉「護良親王」を足利直義が殺害しました。 その理由とは…護良親王が宮様征夷大将軍として執権北条時行を想定した北条幕府再興を直義は恐れたと云われます。……
後醍醐天皇は遂に新田義貞足利尊氏討伐の命令をくだし、自らの皇子義良親王を同行させ鎌倉を目指します。清和源氏を同祖とする足利氏、新田氏と南北朝天皇家の相克が絡み合い太平記の本番闘争が始まります。……先へつづく… ……前へ戻る

南北朝天皇家
(4) 鎌倉幕府北条氏宰領下の天皇は…
(3) 有史最大 朝廷と武家の”ゴッチャ混ぜ”闘争
(2) 後醍醐天皇即位、天皇家秩序崩壊
(1) 足利氏始祖地 足利市鑁阿寺