[敗戦][天皇公家] 敗戦後の裏話(4)−5 終戦に至る昭和天皇の動向

毎日続くこの暑さ!、弛緩した不調の頭で、つらつら考えるのですが、世界規模での異常気象は地球環境の激変兆候ではと心配になります。…福島原発事故以来の化石燃料回帰でCO2問題への思考停止の世情から、即ち環境破壊の危機が加速、必然の結末として農産品の収穫異変、世界飢餓招来などの危機に陥るのではと、……世間様とは逆転した発想ですが、この先6,70年間のニッチなクリーンエネルギーとして原子力発電の見直し選択の気運に迫られる予感もいたします。……
さて、本題に戻りまして、最早半世紀を越えた日本国の歴史の話になるのてすが、現在でも敗戦以前、大日本帝国時代の出来事、真実が語られず、学校教科からも阻外され、何かの力が歴史隠蔽に作用しているとしか考えられません。 もとを正せば江戸時代のローカルな水戸学と云う神話に繋がる虚構を組立てた強烈な神国日本思想がありました。…江戸末期の討幕騒動の勝者「薩長」が、これを利用し明治新政府樹立後は神国日本思想を治世の根幹に定めた国家経営を行ないます。 結末は世界周知の現実として日本国民は有史以来の悲惨な戦争被害を被り敗北降伏の憂き目を体験いたしました。…昭和20年8月15日です。 では今回のテーマに関する帝国憲法の根幹条項をピックアップ致しますと、…
第一条 大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス
第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
     
御前会議正面昭和天皇 photo : 『每日新聞』昭和二十年一月一日
敗戦以前は国の行動国策の発動、例えば軍事行動、宣戦布告に至るメカニズムは未知であり極秘とされていました。 敗戦後の極東国際軍事裁判で奇しくも天皇側近の内大臣木戸幸一は、法廷で天皇の御前会議の存在、複雑な実態を初めて証言し日米開戦、終戦など国策は御前会議をもって決定した事など証言しております。 支那事変勃発以後昭和13年(1938)から昭和20年無条件降伏に至る迄開催された御前会議を列記します。
1)昭和13年(1938)1月11日 支那事変処理根本方針  第1次近衛内閣
2)昭和13年11月30日 日支新関係調整方針 第1次近衛内閣
3)昭和15年年9月19日 日独伊三国同盟条約 第2次近衛内閣
4)昭和15年11月13日 支那事変処理要綱に関する件ほか 第2次近衛内閣
5)昭和16年7月2日 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 第2次近衛内閣
6)昭和16年9月6日 帝国国策遂行要領 第3次近衛内閣 
7)昭和16年11月5日 帝国国策遂行要領 東條内閣
8)昭和16年12月1日 対米英蘭開戦の件 東條内閣
9)昭和17年12月21日大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 東條内閣
10)昭和18年5月31日 大東亜政略指導大綱 東條内閣
11)昭和18年9月30日 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 東條内閣
12)昭和19年8月19日 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 小磯内閣
13)昭和20年6月8日 今後採るべき戦争指導の基本大綱 鈴木内閣
14)昭和20年(1945)8月9日 ポツダム宣言受諾の可否について 鈴木内閣
鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる聖断)。
15)昭和20年(1945)8月14日 ポツダム宣言受諾の最終決定 鈴木内閣
再度、宣言受諾の意思表明(再度の聖断)。
この間の御前会議出席者の発言について戦後、関係者の日記、メモ、談話など個人的見解が巷間伝わりますが、御前会議主宰者の天皇、政府首相閣僚、陸海軍首脳(参謀総長軍令部総長と次官)の発言詳細の公的文書など極東国際軍事法廷の証拠資料にたる物件の存在は確認されておりません。
上記の激動の7年間、支那事変作戦、日独伊三国同盟締結、仏領インドシナ進出、対米英戦争大東亜戦争)開戦、大東亜戦争作戦、ポッツダム宣言受諾(無条件降伏)等の重要国策は大日本帝国憲法に従い天皇の承認を得た、承認された事として決定の筈です。 この間天皇の重要な意思が注目された御前会議は対米英開戦とポツダム宣言受諾の可否でした。…以下、定番として語り継がれている。
…… 特にポツダム宣言受諾については本土決戦派と国体護持派(ポツダム宣言受諾)が拮抗し、御前会議議長鈴木貫太郎首相は大日本帝国統治権者、陸海軍統帥権者である天皇の意思表明を求めました。…結果、天皇ポツダム宣言受諾の意思を表明し、聖断による無条件降伏が決定されます。 但し政府は国体維持を唯一条件としましたが、米国政府は一蹴、…だが、巧妙にマスメディアを介し天皇制に含みを持たせるメッセージがなされたと云われ敗戦が確定、マッカーサー元帥の連合国軍の日本占領が始まりました。……
出版物などから巷間の話……
(1)、昭和16年9月6日の対米英開戦御前会議で昭和天皇は明治先帝が日露戦争時の御製”四方の海 みなはらからと思う世に など荒波の立ち騒ぐらむ”を披露、心境を吐露された?、と云われます。……が、当時の大日本帝国は中国大陸戦線拡大、仏領インドシナベトナム)進駐などでアメリカから経済制裁(石油禁輸)を受け、世界列強の非難が日本に集中、既に国連脱退もしており、日本自らの意思行動だったと思いますが?。… 
(2)、1945年1月6日、戦況不利を理由に昭和天皇木戸幸一重臣の意見聴取を求め 東條英機広田弘毅近衛文麿など’計7名に対し順次下問をおこなった。 2月14日には元総理大臣近衛文麿は下問に際し上奏文を奉呈しますが。その内容の一部に「戦況は既に降伏に至る選択しか残されず、国体護持(天皇制)の観点から一刻も早い終戦の御決断」を上奏したが、この上奏に対し天皇の意見は…『もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う』と云われ近衛の提案は却下されました。 この天皇の判断は敗戦後に話題に上りました。……意見の主な趣旨とは、……「8月9日の御前会議で天皇ポツダム宣言受諾を表明し8月15日、日本は無条件降伏しました。」この聖断に対し、『遅すぎた聖断』とした内容とは…、2月14日の近衛下問時に聖断があれば東京大空襲から広島・長崎原爆投下に至る数々の惨事を回避できた。……
…一方8月9日の聖断を賞賛する意見は…本土決戦を主張する軍部を制してポツダム宣言受諾した昭和天皇の勇気ある行動は本土決戦から多数の生命を救ったと評価しています。 が、いずれも一貫したロジック、決定的な論拠がなく、多分に天皇、戦争に対する個人的情緒の吐露に過ぎないようです。また、会議活写の内容も出席者全員『聖断に感激し落涙止まず書類を濡らす』などと陪席者の話まで流れ故意か作意か、緊迫した会議の真実を逸らし漠然とするばかりです。……決定的な文書の不在で論拠は霞み、日本国歴史の重要分岐点の真相は闇に流れ去った過去の踏襲に終わるのでしょう。  ……先へつづく… ……前へ戻る

《敗戦後の裏話》
(5) 昭和天皇の変身
(4) 終戦に至る昭和天皇の動向
(3) 昭和天皇の試練、極東国際軍事裁判
(2) 飢餓とハイパーインフレの教訓
(1) 逆転社会の到来