[寺社][地域] 船橋 市川の探訪 (1)−4 中山の巨刹 法華経寺

下総中山に大きなお寺さんが在るのを知ったのは15,6年前の事でした。
千葉と云えば成田山新勝寺が思い浮かぶのですが、東京に近い場所に国宝、重要文化財の宝庫が在ったのです。 市川には戦後、文豪永井荷風が移り住み、市川から船橋にかけて、隈なく散策した随筆を残しており、私が船橋界隈を徘徊するのも荷風さんの名文に誘われたのが始まりでしたが、なぜか法華経寺に直接触れる文章がなく、この巨刹を見逃して居たのです。この一帯中山は荷風さんの散策のテリトリーですから、しばしば参道の茶屋で書き物をする姿など目撃されていますが、その荷風さんは芝増上寺に関しては手離しの礼賛で臨場感を湛えた流麗な文章から私なども徳川霊廟建築物のフアンにさせ、上野東照宮、日光社寺拝観では、その真髄に触れる事ができました。 ま、難しいお人ですから、いろいろ事情はあるのでしょう。 
…なお、空襲の戦火で烏有に帰した増上寺遺構は荷風随筆の《霊廟》、《冷笑》に記されております。……話は相変わらず紆余曲折の様相ですが、追々船橋界隈に至ります。今回は中山法華経寺から始めます。
     

上) 三門 下) 五重塔 元和5年(1162)加賀三代藩主前田利光 寄進建立
京成電車京成中山駅か、JR下総中山駅下車、一本道が参道です。その商店街の中に黒門と呼ばれる大門が、すでに寺の風格を現しております。 さらに先の壮大な山門をくぐると道の両側には瀟洒な支院が並び法華経寺境内へ続いており、仰ぎみる山門には本阿弥光悦筆の「正中山」の額が掛かっております。 この国宝、重要文化財を楽しむ為にはその由来、なぜ此処に在るのかを知らなくては面白くありません!、その辺から調べてみましょう。…
東京近辺には日蓮上人所縁のお寺として、安房小湊誕生寺、寂滅した地、池上本門寺、布教に活躍した時代の由縁のお寺、中山法華経寺があります。
日蓮さんとは。……貞応元年(1222)鎌倉幕府二代執権北条義時の時代、千葉県天津小湊の漁師の子として出生、十一歳で清澄寺(現、天津小湊)に入門、十九歳で比叡山高野山などに修行し総ての仏経典を研究した結果、法華経を究極の仏典として”南無妙法蓮華経”を唱える宗派を起こします。建長六年(1254)いよいよ鎌倉で日蓮と名乗り布教を始めますが「四箇格言」(しかかくげん)として”念仏無間” ”禅天魔” ”真言亡国” ”律国賊”と他宗派を尽く排斥批判しました。
他宗派排斥の圧巻は”立正安国論”です。…天下の災禍は邪宗派信仰にあり、正法たる法華経を幕府が立てなければ他国の侵略、内国戦乱(他国侵逼難、自界反逆難)が起こると説き、時の鎌倉幕府最高の実力者、前五代執権北条時頼に文応元年(1260)建白いたします。 これが基で他宗派信徒の深い恨みをかい襲撃や、幕府による流罪を度々うけ、これを日蓮の四大法難と呼ばれているようです。
しかしながら四度目の法難、佐渡流罪から放免された日蓮は文永十一年(1274)八代執権北条時宗の代理北条頼綱に喚問されて、今年こそ蒙古襲来と予言し法華経を立てるよう幕府に三度の諫言をしますが、無視された日蓮は甲斐の身延山の草庵に篭り法華経の読誦、門弟の指導育成、著述などで九年間を過ごして居ます。…しかし、奇しくも諫言の五ヵ月後、蒙古軍襲来が起り、更に弘安四年(1281)に蒙古大軍再襲来”弘安の役”がありました。……弘安五年(1282)日蓮は病を得、寿命を悟り六人の弟子を後継者に指名、後事を託して身延山をあとに常陸へ湯治の途中、現在の大田区池上で歿し六十一歳でした。     

上) 祖師堂と附近境内 延宝6年(1678)建立 下)大額 本阿弥光悦
中山法華経寺日蓮上人霊跡の謂われ…
日蓮が”立正安国論”を幕府に建白した後、激怒した他宗派から鎌倉松葉谷の草庵を襲撃されますが辛くも信者の富木常忍(幕府御家人千葉頼胤の家臣)に請われ下総、八幡若宮(現、奥の院)の館に逃れ法華堂を建て説法をしますが、再度、鎌倉に戻ります。これが松葉谷の法難。
翌弘長元年(1261)には幕府に捕らえられ伊豆に流罪されますが赦免一年後の文永元年(1264)母の病気回復祈願の為安房天津に戻りますが地頭、東条景信は小松原(鴨川市)で己の信心を否定する日蓮の殺害を謀り凶行します。 このとき弟子と信者の二名の命は失われましたが日蓮は重傷を負いながらも一命はとりとめ再び若宮の富木常忍館の法華堂に難を逃れ傷の養生をします。これが小松原法難と云われ、四大法難の二つまでも下総中山(若宮)の地が日蓮を支えた事になります。 因みに他の二つの法難とは北条幕府による伊豆流罪佐渡島流罪です。
中山法華経寺の起源は。……
若宮の富木常忍の館にはすでに日蓮自らの法華堂があり、後の経過からもここが中山法華経寺の原点かと考えられます。
若宮の僅か南の中山に館を構える太田乗明(千葉頼胤の家臣)も常忍と共に日蓮に帰依しており館に持仏堂を建立しておりますが、日蓮の寂滅後、富木常忍は出家して日常となり法華寺、太田乗明も館に本妙寺を起こし、後に一主両寺の形態で初代が日常、二代を太田乗明の子日高が継ぎます。 …両寺が合体して法華経寺を名乗るのは戦国時代の天文十四年(1545)と云われ、若宮の法華堂を中山に移し現在の境内が出現しました。富木常忍の館法華堂跡は現在も奥の院として残っております。
なお千葉頼胤については、源頼朝が治承四年(1180)の旗揚げ後小田原石橋山で敗れて房州に逃れ、下総で挙兵再起した時の大功労者で頼朝が最も信頼した御家人です。頼胤は下総の豪族千葉常胤の直系一族です。 この頼胤は奇しくも日蓮が予言した元寇の役に出陣、戦死しております。……
お付き合い、お疲れ様で御座いました。 斯く云う私も疲れましたが、大伽藍の探索は次回です。  …… 次回へつづく… 

船橋 市川の探訪》
(4) 船橋散策案内
(3) 船橋という街 永井荷風、太宰治
(2) 法華経寺大荒行、本阿弥光悦、伊藤忠太
(1) 中山の巨刹 法華経寺