[昭和][産業] 昭和モータリゼーション(8)−8 自動車会社浮沈の根源は、

戦後世情の企業労使関係の象徴的な出来事が昭和59年1月、日産自動車で起こり、露骨な内情が世間の耳目を集めました。
予ねてより日産の天皇と云われて、経営にも深く干渉し、並みの重役を凌駕する権力者、日産労組委員長塩路一郎の私生活が写真週刊誌フォーカスで暴露され、究極の労働貴族ぶりが周知されたのでした。
彼は品川に豪邸を構え自家用クルーザーを所有、夜の銀座で遊び、専用車はプレジデントと、当時の社会では突出していたのです。 銀座の愛人とクルーザーでの甘美な生活をフォーカスされ社員、組合員の納得される筈も無く、一挙に支持を失います。 当時の社長石原俊は就任以来、労組の経営干渉排除を指針としたので、この事件はテーマの一つを一挙に解決したわけです。…が、フォーカス事件に会社の関わりの有無は不明です。……
この一連の労働貴族輩出事件の端緒とは、日産自動車がフルーバード、セドリック開発に始まりプリンス自動車合併、グロリア、スカイラインと、トヨタ自動車に迫る、日本の二大自動車会社の座に日産を導き指導した川俣克二社長の時代、即ち川俣社長の経営方針が根源でした。
      
HONDA S800  直4DOHC 791cc 70HP 昭和41年(1966)
……原因は敗戦後の世情にあり、戦前の社会主義弾圧の枷(かせ)から開放された労組のイデオロギー支配が、復興期の企業経営と対峙していたのです。 川俣社長の組合対策は協力的な第二組合拡張にあり、塩路一郎を抜擢して解決したのですが、一転、組織力を背景に手腕家塩路一郎の経営マターへの干渉は際限なく始まり、人事、海外事業展開に至るまで侵食を許してしまい、日産凋落の病巣が社内組織に転移しました。……
巷間、川俣克二は日産中興の祖とされていますが!、日産凋落の祖としての二つの顔の持ち主なのです。…
この最盛期が凋落へのターニングポイントでもあったわけですが…御存知の日産はフランスルノーの子会社となりました。 ゴーン氏の指揮下、厳しい合理化と適地生産というだけで社業の回復が出来たのです。 では適地生産とは?、量産工場をマーケットに近く、高品質、低コストでの製造拠点をつくること、…愚直にマーケットを求め、海外適地を求め、移転するだけです。 最盛期のように新車開発力が伴なえば更なる発展の伸び代が在るはずでしょう。
なぜ日本では自動車産業が駄目なのか?、…展望は更に悪化して、消費税増税原発事故を契機に電気料金の高騰は必至です。政治理念の希薄な政治家の存在が、実質的に製造業などの追い出しに繋がっているようです。……
戦後の自動車製造会社の優劣を考えますと、会社経営者の資質が躍進、凋落のキーなのでは?。過って日本の自動車メーカーの御三家といわれた、トヨタ、日産、いすゞ があります。 トヨタは常にトップランナーですが、日産は上記の経緯です。いすずは総合自動車メーカーから脱落し一時は最低ランクに低迷し、外資の救援で凌ぎます。経営者に人を得ていないのです。 新車開発力、生産ラインの合理化、マーケテイングなど常に先端、尖鋭でなければ生き残れない業界ですが、低迷各社の企業体質は官庁や過っての安定大企業の様な官学優先主義で日産、いすずが象徴的でした。…
ここまで話が発展しますと、当然本田宗一郎のホンダとなりますが、バイクメーカー時代は明らかに社長の牽引力で会社が発展しましたが、四輪車を手掛け一挙に技術水準が上がり多方面から参入者で組織が構成されると、他社の模倣に走ろうとしたり、自分の知識にこもる、技術常識を振り回す、など、平凡な技術者集団に堕するのを恐れ、「楽をするな」、「真似をするな」、「チャレンジしろ」、「失敗を恐れるな」と、社長自ら技術提案をするのですが、若い技術者から時代遅れ、非常識などと、かなり非難もされたようです。…が、四輪メーカーになってからの、本田宗一郎社長の存在こそ偉大なもので結果的には…唯の自動車メーカーにならず、今日のホンダとなり、本田イズムが引き継がれているように思えるのです。 。……前回へ戻る
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《昭和モータリゼイション》
(8) 自動車会社浮沈の根源は、
(7) バックグラウンド道路 
(6) 自動車大国の起点とマイカー指向へ
(5) 昭和20〜27年の歩み
(4) 楽しいオート三輪 ハンドリング
(3) オート三輪は戦後のヒーロー 
(2) オート三輪盛衰記
(1) オート三輪の時代