[昭和][交通流通]  昭和モータリゼーション(7)−8 バックグラウンド道路 

自動車の車種やら年式の話は、ちょっとブレークして、自動車のバックグラウンド、道路事情を覗いてみます。……昭和の30年前後でも東京都心部では快適なアメ車でしたが、…郊外や田舎の穴だらけ道路、無舗装の道、更に雨でも降って泥濘道では独立懸下のサスペンションは一変、運転者泣かせに為ってしまいます。 当時の劣悪な道路事情は先進欧米諸国の車には過酷な条件になっていたのです。 日本製、日本仕様車の需要を皮肉にも道路事情が支え、国産車の防波堤の役目をして居たわけでしょう。 ま、前回の神風タクシー誕生にも為った日本仕様車の開発に繋がっていたのです。 
     
戦後モータリゼーションの寵児”オート三輪”四輪業界を尻目に戦後復興に活躍した。photo : マツダCB GP企画センター 懐旧のオート三輪
一方、東京の市街部、道路事情…、敗戦後昭和24,5年頃の市街の主要道路は路面電車と車が共用し、道幅は現在の1/2以下でした。 例えば渋谷の例…現在の道玄坂上から渋谷駅前交差点、宮益坂上に至る道が昔のままの旧道です。六本木通り溜池方面や青山通り赤坂見附けまで、旧道とほぼ同じ道幅だったのです。 当然現在の道玄坂上からの玉川通りは新設バイパスで宮益坂上で旧道を併合します。 玉川通り上部を走る首都高速の建設に伴い開通した六本木通りは高樹町富士フィルム迄は新設道路です。…では旧六本木通りとは、青山通りの青山学院先の三叉路を右折する、現在の通称”骨董通り”が昔の旧道で、当時の道幅のまま、高樹町で現六本木通りに合流しています。……次は新宿へ。…
新宿から四谷見附、半蔵門に至る新宿通り…青梅街道から新宿大ガード(現、靖国通り)をくぐり右折新宿駅前から高野フルーツパーラー、中村屋紀伊国屋書店伊勢丹交差点(追分)で甲州街道が合流して、四谷4丁目(大木戸)交差点までが昔の道幅の道路が残り、当時はその道幅で四谷駅前、半蔵門路面電車と共用した道です。青梅街道と甲州街道を一本にして都心に導く道路でした。 現在の拡幅道路と霞町や赤坂見附の立体交差の完成は、昭和40年頃でしょう。 だいたい山手から都心に至る道が大改修の対象になるのです。…但し、都心部と下町は関東大震災の復興事業で現在の道路の大方が完成されておりました。……東京の極一部をサンプルにした話でしたが、現在は地方国道も殆どがバイパス化して新設道路に一変しており、大日本帝国時代の戦争一辺倒、公共投資無視の付けが戦後に廻されて来た事になります。
日本国の成長期に道路整備に莫大な国費が支出され国土近代化が実現し、自動車の普及と自動車産業の発展は先進諸国の仲間入りが実現しております。……
丁度この時期昭和39年(1964)の東京オリンピック開催にむけ首都高速道路工事が活況し建設工事がブーム化しましたが、当時、既に高速道路(フリーウエー)が東京に存在していたのですが。!、……昭和34年に開通した高架道路で新橋土橋交差点から新京橋出口まで2kmの上下線です。 これは戦後、戦災残土で埋め立てられた外堀跡地に造り上げた高架道路で、下は延々と店舗として利用、西銀座デパートなどがあります。 有楽町の名所?、ちょっと古い発想ですが、”数寄屋橋”の、その上をはしる高架道路です。開通当時はオートバイの若者が走り回りカーブを突破して墜落など話題になりました。 現在は首都高汐留と白魚橋で接続し無料区域になっております…この片道一車線、2kmの道路所有者とは、立派な名前の、…東京高速道路株式会社です。…が、目的は一等地への店舗造成か、高速道路が主体かは不明?、の存在。……
東京オリンピックに併せ必要区間を開通させた首都高速は、その後、延伸工事が続くのですが、……
遂に昭和41年(1966)には本格的東名高速道路世界銀行の融資1億ドルを受け着工しましたが、各工区に分断した担当ゼネコンは海外の会社が多数参加していたのです。……現在の日本国では考えられない世銀融資とか、外国ゼネコンの受注など、当時の国情と、建設業界の実情などを現す、今は昔のお話です。 昭和43年(1968)には東京用賀を起点に厚木インター間が開通し、その他、工区も続々と完成して行きました。…… 次回へつづく… 。……前回へ戻る

《昭和モータリゼイション》
(8) 自動車会社浮沈の根源は、
(7) バックグラウンド道路 
(6) 自動車大国の起点とマイカー指向へ
(5) 昭和20〜27年の歩み
(4) 楽しいオート三輪 ハンドリング
(3) オート三輪は戦後のヒーロー 
(2) オート三輪盛衰記
(1) オート三輪の時代