[地域][歴史]  横須賀事情(2)−9 横須賀帝国海軍の物語

今回は横須賀軍港の象徴駅JR横須賀駅から始めます。往時、この地にアクセスするローカル線として明治22年東海道線大船駅から横須賀線が開業しました。西南戦争の12年後の事ですから如何に重要路線であったかが分ります。
その経緯とは、徳川時代末期、幕府勘定奉行小栗忠順(上野介)がフランスナポレオン三世の公使ロッシュと交渉して立ち上げた日本最初の近代的重工業”横須賀製鉄所は《日本の近代工学の一切の源泉》と作家司馬遼太郎さんが云っております。この地が選ばれた理由はフランス、ツーロン軍港に似た水深のあるリアス式海岸だったのです。

戦艦陸奥 横須賀海軍工廠建造、昭和18年(1943)瀬戸内海柱島作業地にて謎の爆沈
しかし、フランス人技師ヴエルニーにより建設中に幕府は崩壊し発注者消滅の危機を小栗忠順はロッシュを説得し工事を継続させます。国家権力の崩壊を…大政奉還は只の発注者名義人の変更と説得したのです。契約は明治新政府に引き継がれ明治4年帝国海軍所属横須賀造船所となりました。以後、海軍工廠として海軍艦艇の建造と周辺一帯は海軍横須賀鎮守府と巨大軍港出現の過程で最重要施設への鉄道として横須賀線が施設されたのです。
蛇足になりますが、鎌倉、逗子、葉山などは横須賀軍港への鉄道、道路、その他インフラ整備の波及効果で、明治以来海軍士官、外国人教官などの住居として整備され、戦後は米軍家族には温暖風光明媚な居住地として発展した一端の歴史があります。なお、駐留米軍家族にとって戦後のドル円レート360円時代の恩恵だったのでしょう。
その後海軍の横須賀の施設は先進技術の工業を発展させ航空母艦、戦艦、巡洋艦など巨艦を竣工させてきました。 それでは巨大船台とドックを有した横須賀海軍工廠の軍艦建造の実態を調べてみます。
《主な建造艦、隻数、含む艤装、改装工事。》
航空母艦……翔鶴…他×11隻
戦艦……陸奥…他×4隻
巡洋戦艦……比叡…他×2隻
重巡洋艦……妙高…他×3隻
軽巡洋艦……天龍…他×2隻
防護巡洋艦……新高…他×6隻
潜水母艦……大鯨…他×2隻
さて、現代の情報社会では信じられない戦争!、…大日本帝国は米英両国を相手に真珠湾攻撃をもって開始いたしました。 しかし緒戦の真珠湾奇襲作戦に成功した帝国海軍でしたが、敗戦までの4年間機動部隊激突の大海戦は尽く敗退し、すべての艦船は失われます。 象徴的大敗北はミッドウエイ海戦です。戦力的にアメリカ艦隊の倍以上の艦船を投入し、日本は空母4隻沈没、アメリカは一隻沈没の結果でした。搭載航空機と乗員の喪失も加わり開戦6ケ月後昭和17年6月早くも敗戦へのターニングポイントだったのです。 機械、工業製品が主体戦力の海軍は近代合理主義思想と云われましたが、精神主義の影響は指揮情報組織の科学的マニュアルの欠落した判断ミスと上層部の資質不足は顕著に現れ、東郷元帥への伝統至上主義が跋扈し、近代的海戦に尽く敗退してゆきました。……
では敗戦の前年昭和19年に横須賀海軍工廠で建造した当時世界最大級の航空母艦信濃排水量71,890トンの運命から、…帝国海軍滅亡メカニズムの一端を具現化した話です……。
    
帝国海軍 巨大航空母艦信濃”  呉市海事歴史科学館所蔵
昭和19年(1944)11月28日未明、横須賀海軍工廠を解纜、駆逐艦磯風、浜風、雪風を護衛に従え、呉海軍工廠へ航海中の航空母艦信濃」は翌29日浜松沖で索敵行動中のU.S NAVY S.S(潜水艦)アーチャーフイッシュに遭遇、魚雷攻撃を受けて沈没します。 これは世界海軍史上最短命の艦暦記録になり、二つの世界記録を残して艦長以下乗員多数が海底に逝きました。 
この”信濃”は大和型戦艦3番艦として起工しましたがミッドウエー海戦惨敗から航空母艦不足を補う為に急遽空母に中途改造されたものです。”信濃”の船殻構造は魚雷の3、4発命中程度ではダメージに至らない戦艦”大和”と同じく強靭な筈ですが? この一件は既に帝国海軍は戦争遂行能力を失っていた象徴的事件でした。
まず、日本駆逐艦の対潜探知能力を遥かに上回る性能の米国潜水艦の存在です。 すでに駆逐艦自体が潜水艦の餌食になる逆転したケースが多発し、3隻の駆逐艦の”信濃”護衛も形骸化した慣例行為に過ぎなかったのです。 魚雷4発被爆後も20ノットで7時間も続航出来た巨艦を適切な処置判断を欠いた艦長、また乗組員の応急((Damage Control)技術の不在と、更に艦長は乗員の駆逐艦移乗や救助要請もせず沈没し多数の犠牲者を出し、緊急避難的な沿岸座礁で船体、乗員の存続の選択肢が在った筈ですが。…
また、建造した海軍工廠側実態としては、密閉出来ない水防ハッチとか、防護扉に電纜が放置され開閉を妨げたり、枚挙にいとまが在りません。
巨大空母”信濃”建造の現実は作業要員欠乏から技術なき徴用召集者による工廠製造物であり、操艦者は海軍の未熟指揮官、未訓練乗組員がもたらした相乗結果の沈没なのでしょう。……
なお現在”信濃”建造の6号ドライドックは米海軍第7艦隊原子力空母ジョージワシントンなど巨大艦の上架修理など貴重な設備として使用されており、その経済価値のトータルは世界の軍港の第三位を占めると云われます。
敗戦後の一筋の光明は《日本の近代工学の一切の源泉》と作家司馬遼太郎さんが述べた様に小栗忠順の置き土産は……、横須賀海軍工廠と横須賀浦郷の海軍航空技術廠の結晶が技術者を介して社会に還元され、戦後の宇宙開発、新幹線、自動車工業、光学、エレクトロニクス、など先進工業立国に多大な貢献をしております。……先へつづく… ……前へ戻る…   

《横須賀事情》(9) 横須賀のオンリーさん
(8) 洋パン嬢とオンリーさん
(7) 横須賀の落穂拾い 小栗忠順という日本人
(6) 横須賀の落穂拾い 横須賀の遊廓
(5) 横須賀と芥川龍之介
(4) 海上自衛隊の創設期とU.S NAVY
(3) 海軍遺構と長浦港自衛艦隊
(2) 横須賀帝国海軍の物語
(1) 横須賀 街の今昔