[交通流通][昭和] 昭和モータリゼーション(3)−8 オート三輪は戦後のヒーロー 

敗戦後、重要施設は占領軍に接収され敗戦国民は焼け跡にバラックを建て、食なし、職なし、住居なし、オールナッシングの東京でした。当時の飢餓社会は昭和21年(1946)5月19日皇居前広場に25万人が参加し食料メーデーが開催されます。占領下とはいえ主権者天皇への上奏文提出などを行い、手に手にプラカードを掲げた人々が集まりました。今でも語り草は《朕(ちん)はタラフク食っている。爾(なんじ)臣民飢えて死ね。ギョメイギョジ》のプラカードです。掲げた当事者は旧憲法最後の不敬罪で起訴されますが有罪にはなりませんでした。 
注)爾(なんじ)…二人称の人代名詞。相手を卑しめていう。貴様。おのれ。…天皇勅語に良く使われる語→爾臣民…
が、逆境に強いアウトローテキヤ、ヤクザ、闇商人、闇市、特攻隊くずれ、復員軍人、第三国人、パンパンガール、パイラー、密造酒造り(どぶろく、カストリ、ばくだん)と、この辺りの人々が活発に経済活動を始めます。この闇成金族は毎食銀シャリを食い、ラッキーストライクを吹かし、腹巻には札束を入れ半長靴で街を闊歩しておりました。不思議な事に飢餓時代とはこんな事が大きな経済格差に見えたのです。
また反面、この人達に依拠しなくては庶民の生活すらも成立たない象徴的な話があります。 闇米を取り締まる検察官の餓死事件です。職業倫理観のなせる業か!自らは配給以外の食料を拒絶した結果でした。
ま、この間、アウトロー闇経済が世間に刺激を与え庶民の商売も、ボツボツその気運が出てまいります。 先ず建築、材木、土木、建材、印刷、製本、米軍払い下げ物資、日用品、など荷動きが活発化してまいりましたが、運搬手段としては荷馬車、大八車、リヤカー等に頼っていた時代です。対照的に進駐軍ジープやGMCが疾走しておりました。
     
ダイハツ後期高性能車   photo by GP企画センター 懐旧のオート三輪
しかし沈滞していた企業家の目には戦前のオート三輪車をイメージしたのか、軍需工場で培った技術を活用して世情にあった運搬手段として開発生産が始ります。戦前派のダイハツマツダ、くろがねのメーカーが核となり、新規参入組みとして、三菱みずしま(中日本重工業)、オリエント(三井精機工業)、ジャイアント(愛知機械工業、戦前も存在した)、アキツ(明和自動車工業)、サンカー(日新工業)などです。
では世情に合致したペーシックな運搬車(オート三輪)とは。……
廉価…当然シンプルな構造が基本になります。
シンプルな構造…バーハンドル、サドル席、単気筒、後二輪のロットブレーキ、キックスターター、プロペラシャフト、デフ、手動スロットル(レバーまたはグリップ)、手動電気位置調整、簡素キャブレーター(手動チョーク、エヤフィルターなし)
要求性能…積載重量は750kg〜1000kg程度、運転席風防ガラス、雨除けテント屋根、折りたたみ助手席などでしょうか。また荷台と運転席隔離のアングルは積荷から運転者の保護と長尺物積載用です。……
昭和25年(1950)頃に至り爆発的にオート三輪は普及し経済活動に欠かす事が出来ない存在となります。更なる需要活性化は同時にその性能の高度化に結びつき技術革新は普通自動車を凌駕するところまで発展し運転席のキャビン化、高馬力なOHV、OHC水冷4気筒エンジン、丸ハンドル、ロングボデー、と性能用途は際限なく拡がり山間部林業の木材切り出し、土木作業にまで必要とされました。私の知っている特殊車両は日通のオート三輪トレーラーとか、バキュームカーオート三輪消防車、ダンプカー、塵芥収集車まで多士済々でした。昭和35年も過ぎ高度成長へギヤレシオが上がるとオート三輪は高性能の極致に達しました。反面、小型トラックとの価格的な競争力は失われ、更には構造上の利点が最大の欠陥構造となり一気に衰退の道を辿りました。即ち道路整備による高速走行時代では前輪一輪のオート三輪は致命的な構造だったのです。日本復興期のエース、三輪自動車は消滅して行きました。
私なりのオート三輪の総括は昭和25,6年のバーハンドルモデルが最盛期であり最も社会状況に貢献した価格、構造だったと思います。後期の丸ハンドル時代は四輪自動車の亜流に陥ったのでしょう。
では、最盛期製造会社別のオート三輪”岡目八目”……
マツダ…戦後オート三輪のトップメーカーとして抜群の技術先進性を発揮した。炭鉱景気などで削岩機のメーカーとしても有名。昭和25年開発したCT型は2気筒V型OHV1000ccエンジンは高性能化のパイオニア的な存在です。V型ですからサドルに大股開きで座りグリップを捻れば切れ味の良いエンジン音とレスポンスは現在のバイクライダーでも納得かも知れません。ちなみにトヨペットトラックの4気筒サイドバルブエンジンを凌駕したものでした。
ダイハツマツダと首位争いの実力です。当時のネームバリューはトップでした。扱い易い故障の少ないパーソナルな車の代表で信頼性は抜群。私には電機業界のナショナル(現パナソニック)製品のイメージが当てはまります。
みずしま…三菱が造ればこの様になるのか!と納得の車。運転席回りがすっきりとしてエンジン部のメンテナンスが快適。荷台のスペースやハンドリングの配慮が良く、オート三輪に風雨除けの風防ガラスと幌の屋根を付けた構造の考案会社です。シフトレバーにガイドがあり初心者でも直ぐに馴染める車でした。
くろがね…昔から2気筒V型エンジンがユニークな存在でした。単気筒が主流の時代にエンジンの静粛性が記憶に残っております。高級オート三輪の部類だったのでしょう。 その分、汎用性が欠けたのか私には重量物を満載する八百屋さんがユーザーの感がありました。ヤッチャバに出入りする車の多数を占めていたようです。
ジャイアント…水冷エンジンのユニークな車です。運転者にとっては空冷エンジンオーバーロードすると灼熱のエンジンを抱えている環境でしたが水冷はこの車の長所です、長距離運転にも適応しております。単気筒19馬力エンジン車で当時の砂利道の国道を福島県小名浜まで遠出したのですが、帰途、エンジン固定のボルトからの水漏れに遭遇した記憶があります。…コンパクトな車体構造にまとまっておりました。
アキツ…特に性能的には余り突出した話は耳にしておりませんが、強烈な印象としては、ロングボデー車です。昭和25,6年頃は大荷台の三方開き13尺ボデーは珍しく、材木類を荷台に平置きで積載できました。材木屋さんは大分重宝したと思います。
オリエント、サンカー…あまり馴染みがなかったせいか、特別な印象は残っておりません。悪しからず。…
最後に当時のオート三輪と小型4輪トラックの比較は上記の通りエンジン性能と積載能力、価格はオート三輪に軍配があがりますが、やはり居住性能は4輪が快適でした。特に新発売のプリンストラックはトヨペット,ダットサンと比較してエンジン性能、居住性、積載性ともに抜群の品質で乗用車代わりにも使用した記憶があります。当時世田谷通りを若かりし三国連太郎さんが赤いMGで疾走していた時代です。……次回へ続く…   ……前回(2)へ

《昭和モータリゼイション》
(8) 自動車会社浮沈の根源は、
(7) バックグラウンド道路 
(6) 自動車大国の起点とマイカー指向へ
(5) 昭和20〜27年の歩み
(4) 楽しいオート三輪 ハンドリング
(3) オート三輪は戦後のヒーロー 
(2) オート三輪盛衰記
(1) オート三輪の時代