[江戸][産業]  江戸リサイクル優等生浅草紙と浅草海苔、トイレットペーパーの因縁。

スカイツリーテレビ塔もどうやら全容を現し完成に急ピッチの段階です。
おそらく観光資源として浅草、大川(隅田川)、向島の三位一体でお江戸文化がクロズアップされる事になるのでしょう。……
太古の昔、海の中からお出ましになった聖観音菩薩像の信仰が江戸一番の歓楽街に発展した浅草です、その文化の一つに浅草紙と云うものがあります。昭和20年の大日本帝国の敗戦後暫くまで存在したので、戦前派と云わず戦中派のお方様も御使用になった筈の生活用紙です。……が、さすがに現在は無くなりました。それは落し紙こと、トイレットペーパーです、ま、水洗式では使用禁止の汲み取り便所専用トイレットペーパーですが。では、その紙の実体とは……
『人間の肉体の内部とは五臓六腑で成立っております。その入口が口とすれば出口はそれぞれ2穴(2孔)が存在いたします。 お江戸浅草には、その入り口で用いる天下無双美味なる浅草海苔、また出口、御不浄で用いますところの浅草紙とは、深〜い因縁が御座います。…はて、さて身近なるテイッシュを一枚拡げていただきたい、乾し海苔(浅草海苔)一枚を更に取り出だしまして、重ね合わせれば、あ〜ら不思議や、あな畏しこ、ピッタリの同寸法となります。』…テイッシュは浅草紙の子孫筋に当たりまして寸法は同じです!、はい、ここまで来れば当然浅草紙と浅草海苔の因果に思い当たれば、ご正解!…
乾し海苔(浅草海苔)は浅草紙の製法から発想した江戸時代の新商品でした。きれい汚いは別として落し紙の後継者が乾し海苔高級浅草海苔です。更に美味しく頂くようお願い申し上げます!……

旧山谷掘り紙洗橋
では、物の順序として浅草紙の由来製法となります。 話によるとその昔浅草寺が寺の不要な反古紙を寺地を耕す農民に依頼して漉き直し乾燥させ一枚づつに切り揃えたものだそうで、この紙の漉き方は、まず古紙や拾い集めた屑紙を水に冷やかし洗い、ふやかした紙を煮て溶解後、叩いて細かく分解し、改めて紙に漉き直します、これを天日で乾燥して裁断したものですが、墨が除かれないので鼠色に仕上がのです。江戸時代は紙は貴重な物で竹籠を背負い往来を歩く「紙屑拾い」の絵なども残されております。
私達が昭和20年代まで使用した浅草紙もごわごわの厚手の紙で、しばしば漉き残された部分には活字が読み取れたり、人間の毛が混じる事のある粗悪な代物でした。昭和の時代では作業には動力を利用したのでしょうが、基本行程は同じ事、インク類の除去されない鼠色がこの紙の特徴です。街の荒物屋(日用雑貨店)の店先には箒、はたき、塵取り、洗濯板、固形洗濯石鹸、たらい、などに混じって浅草紙の束(30cm程度)が積み上げて在りました。……
この紙が浅草発祥の物である実証は……江戸の初期、現在の雷門一丁目(田原小学校付近)には屑紙の漉き返しを業とする人達が多く居住した事から江戸切絵図延宝四年版(1676)には”カミスキ丁”の町名が記録されており紙漉業の繁忙を示唆しております。浅草紙と浅草海苔の関係はこの辺で、…”闇の夜も吉原ばかり月夜かな”と東都第一番の男の歓楽郷と紙漉きのお話、日本堤に沿って山谷掘りが流れておりました。この水を利用してこの辺りでも紙漉きが繁忙し現在もその名残の紙洗橋の遺構が残されております。何方様も”ヒヤカシ”と云う言葉は御存知のことでしょう、その発祥由来とは紙漉き職人が屑紙を川水で”冷やかして”(ふやかして)いる暇な時間に吉原遊郭をそぞろ歩き女性鑑賞で暇つぶしをした話から、その気も無い、買う気もない、金も無い連中が客を装う人を”冷やかし”と呼ぶようになったとされます。
時代は明治の末に移ります。紙漉きを支えた主役、屑やさんの様子は「屑〜い 屑やお払い」と呼び分銅付き棒秤を持って街中を買い歩く姿が昭和の中頃、私の記憶にもあります。 その対象物は紙、布、人毛、金属、ガラス、ゴムとあるゆる材質の屑物に及んでおります。また”バタヤ”と称する人達も大八車に木枠を付けて紙を何処からともなく集めてまいります。この人達が古紙、屑紙の有力な供給者でしたが、明治期大流行したコレラなどの衛生面と火災予防で警視庁は東京市内屑物収集業者の仕切場で屑物貯蔵を禁止したのです、屑紙を断たれては江戸由来の紙漉業も浅草の街から姿を消すしかありませんでした。……
     
旧街道千住4丁目漉紙問屋横山家
東京を追われた屑物業者は東京府北豊島郡日暮里町三河島町へと移転しますが、すでにこの地域は王子製紙など大工場の原料であったボロ布を収集納入の下地があったと思われ、更に業者が加わる事で繁栄発展し昭和2,30年代には日暮里周辺からは屑古紙を満載して大型トラックが静岡県吉原、富士の製紙工場、トイレットペーパー工場へと盛んに運び込んでおりました。また、三河島はウエスと呼ばれる機械用の油拭きボロ布の一大供給地として有名になります。 大正、昭和にかけては欧米諸国へも輸出される程だったのです。
昨今になりますと、さすが古紙、ボロ布の仕切場集積場も更なる移転を余儀なくされ以前の街の光景は見られなくなりました。 
では本題の浅草紙の結末にまいりましょう。 故紙の紙漉き技術は江戸時代すでに普及しており180年前の文化年間には本木村(足立区本木、梅田)付近の農家でも副業で浅草紙を漉いており現在、荒川河畔の千住大川町氷川神社境内には紙漉きに関する碑が存在し、当時から稲作並みに盛んだった事がわかります。
北千住旧街道千住四丁目にはこの地の漉紙の問屋で繁昌した横山家の見世が文化財として保存されております。 時代は移り変わり昭和三四十年代にはどうやら浅草紙は絶滅したと思われます。……と皮肉な事に往時浅草紙を支えた屑紙(古紙)収集業はしぶとくも一時の不況を乗り越え現在は資源保護の流れからも再生紙利用が活況で将来的にもリサイクルの優等生で在り続ける事でしょう。