[風俗] 遊郭 赤線 青線(2)−12 著名文士と青線、遊郭の女達

江戸時代の遊郭から人身売買の通用した戦前までの遊女達の社会は事情で身売りされた娘達ですが、非情な苦界の手練手管を身に付け善女、悪女、普通の女と、更なる両極端さえ存在した様子ですが、詳しくは現在でも遊郭の女を題材にした『古典落語』の噺でしょう。分りやすくて面白い噺に品川心中、三枚起請、傾城瀬川、明烏、お直し、など名人の噺を聴けば最高です。落語集など読んでも遊女の様子はわかります。
《青線の女達》
このお話は野坂昭如さんが新宿二丁目、花園を詳しく書いておりまます。この人の世代は敗戦直前の厳しい生活体験と軍国教育に苛まれ敗戦で手の平を返すデモクラシー教育と人生を翻弄された戦中派にあたります。
東京十二契 文藝春秋昭和51年4月号 東京百話(天の巻)種村季弘編ちくま書房
線路渡れば夢うつつ 野坂昭如
昭和二十年代の後半、新宿でずい分女をかったように思うのだが、さて考えてみると、三人の娼婦しか記憶に残っていない。 一人は通称「二丁目」といっていた赤線地帯の、「レダ」なる店にいたサチコ、一人は花園神社裏の、青線の女で「いさみ」のノブエ、同じ一画のヨシコ。 夜逃げをくりかえして、転々としていたが、なんとなく新宿こそわが町といった感じで入りびたり、金があってもなくても、とりあえず悪所ひとまわりしなければ、気持ちが落着かぬ。高校の頃、すでに遊郭に足を踏み入れ、同輩の中ではなれている方だが、初めて東京で登楼したのが、何時どこであったかまるで覚えていない。……
「いさみ」は右から二本目の通りにあった、女は常に二人しかいなくて、ノブエさんは、ここの主みたいな感じで、相棒はよく入替わったが、二十七年秋までいた。怒り肩で腰が張り、肉(しし)おきは堅く、何度も客になりながら、はたして歳がいくつくらいだったのか、当時、あまり気にしていなかったらしい。なんとなく海女出身のように思い、なぜ通ったかといえば、ただ肌馴染みというか、べつに同じシマで箒をしてもさしつかえなく、他の花にうつろうこともよくあったが、彼女のかたわらに身を横たえている時、いちばん落着けたのだ。…ぼくは美人が苦手だった、どうも甘ったれているところがあり、なにより気楽さが第一、そしてこれも差別意識だろうが、醜女の方がわが望みかなえてくださると、決めこんでいた。
四畳半襖の下張」の主人公は、初めて枕かわす芸者を、ひとつとりはずさせみせんとて、さまざまに手管をふるう。早番に御用済ませようとする女との、壮烈な肉弾戦を展開するのだが、ぼくなども、誰に教えられていたわけでもないが、娼婦を征服することが遊客の勤めと信じこんでいた。
つまり時間を長くかけるわけで、あるいは一分当たりの揚げ代を安くしようという下心だったかも知れないが、とっとと終えりゃいいものを、なにかこう逆に買われている如く、教育勅語脳裏に浮かべたり、麻雀の点数は切り上げになっていなかったから、三十八の五飜はなど暗算して敵娼の鼻息あらげるまで、持たしたものだ。床の上手下手、また、天井という面についても、まったく気にとめなかった。ノブエさんはショートであっても、客のズボンを敷布団の下に置き「私、寝押しがうまいの、うっかりすると筋が二本になっちゃうでしょう」という。勘ぐれば、乱暴にふるまうと、ズボンに妙なシワがつくという牽制だったのかも知れない。果てれば即ち彼女は階下の手洗いにおもむく、急に嫖客の足音がかしましく、娼婦の呼び込みが耳にはいる、お定まりの裸電球、水差しも灰皿もない。ふたたびノブエさんがあらわれる。こっちが身を起す、とたんに手品のように、彼女はズボンを引き出し、ぼくの身ずくろいする間に、シーツをのばし、枕を叩いて形をつけ、犯行現場を立ち去る殺人者の如く、眼をきかせ、急な階段危ないからと、必ず先に立つ。…
同じ花園のはずれの筋に、ヨシコがいた。彼女をなぜ覚えているかというと、毛虱(けじらみ)を飼育していたからだ。…
ヨシコさんを敵娼にえらび、二月もすると必ず毛虱の大発生があった。前後に異なる花にしたい寄っていたのだから、当初、誰とも定めがたかったが、他にうつされた者が三人いて、推理のあげく、判明し、ぼくは二度、虱をいただくため登楼した、これほど安上がりの暇つぶしはないのだから。不思議なことに、本家はいっこう痒がる風もなく、だから放置しているのだろうが、何度か、毛虱がマツゲにつくようになったら衰弱して死んでしまうという風説をつげようとして、そのアッケラカンとした表情をみると、ちといいかねた。
 ……
遊郭の女達》
敗戦前の公娼遊郭のことになりますと昭和一桁の人間も体験者は初期の生まれの方に限られてまいります。遊郭(なか)の女との絡みを書いたものが余り見当たりません。なぜか?
…当然だったのです表現の自由どころか警視庁検閲課が出版物の検閲そして発売禁止など行われ違反者は手が後ろに廻ってしまいます。厳しい猥褻の法的基準とは「性行為の非公然性」と大きく網を架けております。例として、発禁第1号は、松井須磨子の歌った『今度生まれたら』の歌謡曲(1917年、大正6年)の歌詞中の『かわい女子と寢て暮らそ』の部分が猥褻とみなされたそうです。その他戦中派の方々は映画館と各種劇場には警察官臨検席の区画が平然とあった事をご存知かと思います。
落語「三枚起請」の筋書きでも記そうと考えましたが、郭噺(くるわばなし)は落語集に沢山ありますから。……戦前永井荷風さんが書いたとされる春本「四畳半襖の下張」は戦後の新憲法下、出版掲載者は摘発され有罪の判決が下されます。文学か只の猥褻文か争われ話題になりました。 この作品をwikipediaの評価欄が適切な感じがしましたので転載します。
小説・春本としての特色としては、性行為を描きながらも読者を興奮させるためのポルノ性の高い直接的な描写が少なく、逆に、短いながらも行為を通して女の情や性格をスケッチしてゆくするどい観察や描写にあるといえるだろう。
たとえば男が女の疲れを気遣って射精を我慢したまま行為を終えた後に、女が「あなたもちやんとやらなくちやいやよ、私ばかり何ば何でも気まりがわるいわ、と軟に鈴口を指の先にて撫でる工合」を見て、「この女思ふに老人の旦那にでもよくよく仕込まれた床上手と覚えたり」と男が思うあたりには、作者の観察の鋭さ、人間描写の巧みさがあらわれている。また騎乗位での行為の後、男の体の上で素裸になっていることに気づいた女が「流石に心付いては余りの取乱しかた今更に恥かしく、顔かくさうにも隠すべきものなき有様、せん方なく男の上に乗つたまゝにて、顔をば男の肩に押当て、大きな溜息つくばかりなり」と感じるあたりは、女性特有の心理をこまかく描いて凡百の春本から一線を画すものであり、四畳半襖の下張事件裁判において、被告側証人であった吉行淳之介が「春本を書こうとして春本以上のものができてしまった」むねの評価をくだす所以ともなった。
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遊郭 赤線 青線》
(12) 元吉原遊郭 遊郭という街が出来た
(11) 遊廓という街があった-2
(10) 遊郭という街があった-1
(9) 吉原遊女 投げこみ寺、淨閑寺昨今
(8) 吉原遊郭 裏方従業員
(7) 現代吉原遊郭変遷 ソープ街を歩く
(6) 玉の井案内 向島と濹東綺譚
(5) 玉の井案内 私娼街の魅力 山本嘉次郎さんとエノケン
(4) 玉の井案内 夢か現か(うつつか)幻か。
(3) 現代異端ストリートガール(街娼)考
(2) 著名文士と青線、遊郭の女達-2
(1) 著名文士が接した赤線の女達-1