[将軍家][歴史][人物] 崇源院お江与の方 (4)−7 お楽しみの切り口春日の局。

前回までは遺構に入れ込んでまいりましたが、…人の世は何処も同じ人間関係があります。 天下の将軍正室お江与の方”の世に知られる挫折のお話。
その前にいつもの様に回り道、戦国人物物語の切り口のキーワードはその人物の名前から人間関係も読み取れるのです。…
     
           
上、増上寺徳川家霊域入口。旧6代将軍家宣宝塔前に在った鋳抜門を転用した。下、三代将軍家光が春日の局に贈った茶室聴秋閣、横浜三渓園

今回の元祖お局様こと春日の局と係る話しは”江”の生した子家光と忠長の将軍世嗣争いの経緯になります。
では”江”に係った人物名から始めます。 織田信長豊臣秀吉浅井長政豊臣秀勝丹波中納言秀勝)、徳川秀忠、家光、忠長から、まず”江”の父浅井長政、以前の名前、賢政は浅井家が臣従した六角義賢から一字貰ったもの、のち下克上し改名、戦乱巷の風雲児、信長にあやかった”長政”に改名したといわれます。
次の方は”江”の嫁した豊臣(羽柴)秀勝(丹波中納言)は秀吉の甥で養子です、当然秀吉の一字を貰っております。 注)羽柴秀勝は他に信長の四男がおりました。
また、豊臣秀吉に臣事していた家康が世嗣秀忠に秀吉の一字をもらったもの、更に家康は秀吉の意に副い秀忠に”江”を娶ります。
さて本題の人物、お江与の方の生した家光は明らかに家康公の一字を継いだ名前とわかります。一方忠長は父秀忠から継いだ名前です。 …この後は世上に伝わるお話です。
家光(幼名竹千代)は1604(慶長9年)その2年後に忠長(幼名国松)が生まれます。 嗣子家光の乳母として、斉藤利三の娘”福”が選ばれ大奥入りし病弱な竹千代に尽くしますが、将軍秀忠と江与は利発で容姿の良い国松を溺愛します、国松が長じて世嗣実現を望んだと云われるのです。 
一方将軍家大奥を取仕切る存在の家光乳母、福こと春日の局は竹千代の世継ぎの危機を察知し秀忠将軍、正室の非を敢然と大御所様家康公に直訴したと云われます。 
駿府城隠居の家康公の御裁断は長幼の序を守るべしでした。 
幸運奇跡の道を歩んできた”江”にとっては我が子の将軍世嗣問題で大奥お女中とも云える家光乳母春日の局に挫折を味合わされた事になり、更に此の問題は尾を引き、悲劇となりました。
秀忠、江与の溺愛を受けた忠長は甲府藩主に就き、元服して更に駿河遠江国にも知行地を得て御三家並みの大納言55万石に任じられ駿河大納言と呼ばれ将軍家光に迫る地位を得たのです。
だが! 忠長には家臣、領民の手打ち殺害の乱行不行跡、臣事すべき将軍に対する有るまじき言行などを理由に改易、甲府に蟄居を命じられ、さらには高崎藩預けとなり幕命により自害して果てました。
不行跡が事実か風聞かは別として、家光は三代将軍に就任時徳川将軍家家族の国主に対して有名な将軍宣言をしております。
三田村鳶魚著 ”お家騒動” 三田村鳶魚全集4 中央公論より
…我代ニ及ビテハ、生レナガラノ天下ニテ、今迄二代ノ格式ニ替リ、向後ハ各モ譜代ノ大名ニ同ジク某(それがし)ガ家臣ナリ。コレニ因テ諸事アシラヒ、家臣同然ノ趣タルベク間、此段相心得ラルベシ。    
若又会得セザル事ナラバ、如何様トモ了簡アルベシ、在所ヘ帰国ノ節、三年迄ハ罷在テ苦シカラズ、其間ニ徳ト勘へ思ヒ立ツコトアラバ、勝手次第タルベシ、但シ此参府交代ノ節ハ、屋敷迄ニ上使ヲ遺シ候ベシト仰セラル、各アット平伏セリ。」

「将軍が二人居る」とも訝れる忠長の言動の為せる断罪ではないかと私は考えております。 …と悲劇を呼んだ”江”の偏愛の結末でしょうか?…
家光には戦国武将の後裔らしい武断政治の片鱗が現れておりますが、徳川将軍家の活況の頂点でした。 最後の将軍は二心を持ち、虚飾小心、卑怯者、武士とは云えない征夷大将軍15代慶喜です。大阪城から敵前逃亡し、自ら謹慎蟄居助命嘆願と引き換えに命を長らえ1913(大正2年)76歳まで舶来の趣味三昧の生活でした。
お江与の方崇源院の宝塔、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の将軍宝塔、正室皇女和宮宝塔を集約改葬した増上寺徳川家霊域は毎年4月2日〜8日まで一般参詣者に公開しております。》
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崇源院お江与の方》
(7) 春日局に係わる噂話
(6) 軌跡の接点 母娘お江与と千姫
(5) 大奥御殿、家光御出生の間
(4) お楽しみの切り口春日の局
(3) 今に残る霊牌所と各地重要文化財群
(2) 幸運奇跡の生涯-2
(1) 幸運奇跡の生涯-1