[将軍家][歴史][人物]  崇源院お江与の方 (3)−7 今に残る霊牌所と各地重要文化財群。

歴史に遺構は付き物です、なにが読み取れるのかが楽しみです!。 今回は鎌倉建長寺に現存する芝増上寺崇源院霊牌所の話しから始めます。この巨大建築物には多くの史実が織り込まれている筈ですから。
その前に、先ずは”お江与の方”崇源院に係る国重要文化財が東京近郊にどの程度あるのか調べてみましょう。
崇源院お江与の方》
● 増上寺崇源院霊牌所(お霊屋)
  所在地…鎌倉市鎌倉五山の一位、建長寺
      (国重要文化財
● 増上寺崇源院霊牌所、唐門
  所在地…鎌倉市鎌倉五山の一位、建長寺。 
      (国重要文化財
● 増上寺崇源院霊牌所丁子門
  所在地…狭山市不動寺
      (国重要文化財
● 増上寺崇源院宝塔(墓)
  所在地…港区、芝増上寺徳川家霊廟。 

《二代将軍徳川秀忠
● 増上寺台徳院霊廟惣門
  所在地…港区、芝増上寺
      (国重要文化財
● 増上寺台徳院霊廟、勅額門。
  所在地…狭山市不動寺
      (国重要文化財
● 増上寺台徳院霊廟、御成門
  所在地…狭山市不動寺
      (国重要文化財

崇源院お江与の方、実子》
● 家光…徳川三代将軍大猷院廟。
  所在地…日光市日光山。輪王寺
      (国宝、世界遺産指定)
● 千姫…天樹院、豊臣秀頼および本多忠刻室墓。
  所在地…文京区。伝通寺境内。
● 初姫…興安院、京極忠高室墓。
  所在地…文京区。伝通寺境内。
     
           
鎌倉建長寺仏殿、元崇源院霊牌所
下、同じく境内元崇源院霊牌所の唐門

さて、崇源院霊牌所とは。…お江与の方が亡くなると芝増上寺に移され火葬が執り行われ、境内に埋葬されますが、将軍家族としては増上寺に最初の霊牌所(お霊屋)が出来上がったのです。 但し長男”長丸”も1602年(慶長7)2歳で夭折し境内に葬られております。
では、この霊牌所が鎌倉建長寺に移築される経緯に入ります。 建物の特徴は鎌倉時代の影響をうけている貴重な建築様式で、徳川時代の華麗な霊廟様式とは異なることは一見して何方にもお分かり戴けますが、奇跡的に現存出来た過程は”江”の人生のように世の成行きがもたらした幸運と云えるのです。
お江与の方の没後6年、大御所秀忠が亡くなり、増上寺境内には台徳院霊廟が建立され、崇源院霊牌が相殿(一緒にする)して祀られました。 最初に建てられた霊牌所の建物はそのまま境内に残っていた事になります。 
前回話が出ました有名な「紫衣事件」で後水尾天皇に対する禁中並公家法度違反の勅許取り消し処分に対し、過って京都大徳寺住持も勤めた沢庵和尚は関係者を集め処分反対運動を起こし、早速幕府により出羽国上山(山形県上山市)に流罪になります。
その5年後の寛永9年(1632)秀忠公の死去による大赦で江戸に滞在する沢庵禅師は三代将軍家光と謁見し家光の帰依を得て品川に東海禅寺の建立を受け、さらに信厚く政事にも拘るようになります。
一方鎌倉の臨済宗の古刹建長寺は寺の再興を図っておりましたが、同じ宗派の臨済宗大徳寺元住持の沢庵が空き家の元崇源院霊牌所を鎌倉建長寺に移建案を家光に進言し実現した話があるようです。…”何方か”が建長寺と将軍家の接点を探し求めた結果の結論なのでしょう!。
移築なった元崇源院零牌所は鎌倉五山一位建長寺の江戸再興による境内最古の建造物”仏殿”としてが保存されました。 その他崇源院霊牌所唐門も同時に境内に存在します。
それでは順序からお江与の方崇源院の墓にうつります。
場所は現在の港区芝にある東京プリンスホテル建物の正面玄関辺りの位置に5、17mの巨大宝篋印塔を建て塔胴内に火葬骨を安置した様式でした。霊牌所はこの塔の前に建てられたものです。
しかし昭和33年の移転改葬作業時にはこの塔は地中深く埋没しておりその跡には八角宝塔と云われる石組みに変わって居たのです。…初期の塔は天災などで崩壊したものでしょうか?。

崇源院宝塔昭和33年移転改葬時の写真、現在は増上寺境内徳川家霊域内、二代将軍秀忠宝塔として代用されている。
この二代目に当たる崇現院八角宝塔は現在の増上寺徳川家霊域に移され二代将軍秀忠宝塔として代用されております。
なぜか? 秀忠宝塔は増上寺将軍家南墓地の鞘堂内に木造宝塔がありましたが昭和20年の東京大空襲で焼失、 この焼失宝塔の跡地には現在ザ プリンスパークタワーホテルの建物に変わりました。
では増上寺徳川将軍家霊域の話しに移ります。
御存知の通りこの霊域は昭和33年に売却により改葬移転され現在西武鉄道系のホテル用地として活用されております。
旧墓地のロケーション概要は増上寺本堂の正面に向かい右、東京プリンスホテル側の場所が北墓地。
6代家宣、12代家慶、14代家茂、7代家継、9代家重の各将軍宝塔と皇女和宮(家茂正室)が並んでいた跡地は平坦に整地しホテル本館建物に変わっております。
本堂左側が南墓地、上記の台徳院霊廟と宝塔(秀忠)がありました。
罹災したとは云え多数の歴史遺構を秘めた将軍霊域を誰が西武鉄道堤康次郎氏に売却したのか? 徳川宗家と言われる家族が居りますが、 …維新後明治新政府の決定で増上寺寺域と徳川将軍家霊域の境界を定め、祖先霊域の所有権を徳川宗家に認める決定文書が存在するのです。 
更には数年前まで寛永寺谷中に在った将軍御台所(正室、みだいさま)墓地も林立する宝塔、石塔を解体整地し一般分譲墓地として大売出ししております。 貴重な歴史遺構を尊崇もなく惜しげもなく解体売却のビジネスをしている人は何方なのでしょうか? 真相は語られておりません。
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崇源院お江与の方》
(7) 春日局に係わる噂話
(6) 軌跡の接点 母娘お江与と千姫
(5) 大奥御殿、家光御出生の間
(4) お楽しみの切り口春日の局
(3) 今に残る霊牌所と各地重要文化財群
(2) 幸運奇跡の生涯-2
(1) 幸運奇跡の生涯-1