[将軍家][人物] 崇源院お江与の方 (2)−7 ”江”幸運奇跡の生涯

前回に続き、東京近郊各地に多数存在する崇源院お江与の方の遺構は歴史そのものと云えるでしょう。 興味のある事には、そこから歴史の一端、徳川将軍家の家格顕示の指向を覗く事が出来るのです。端的な例から始めます。…
”江”は将軍秀忠に嫁しましたが、世嗣家光が三代将軍に就任し、秀忠が大御所になった3年後1626年(寛永3年)に死去します。 歴史の事ですから丁寧に話を進めますが、芝増上寺に葬られ霊牌堂が建てられます。 しかし6年後に秀忠が没し台徳院霊廟が建てられると崇源院お江与の方の霊牌もここに相殿(一緒にする)して祀られました。 この霊廟崇源院相殿の通用口として画像の丁子門が建てられたのです。
では、最初の崇源院霊牌堂は何処にあるのか?、現存して居り、話しは後ほど。…
戻りまして、華麗な丁子門を観察する事で初期徳川将軍家が目指した格式が読み取れるのです。
それは、二代将軍秀忠の時代に天皇、公家などに対して”禁中並公家法度”を制定して幕府法制下に置き、更には後水尾天皇の勅許差し止めの”紫衣事件”まであり天皇は退位しております。

徳川将軍家は天下統一を為し、あまつさえ二代秀忠息女和子を天皇家に入内させ、生した子が第109代明正天皇ですから、日本最上級の家柄を自負し将軍正室には天皇家並びに上位公家出身者から迎える仕来りが出来上がりました。…
ところが、秀忠室”江”の父は浅井家三代目長政です、一戦国大名の娘では徳川家の今後の格式に!!、…そこは巨大組織、知恵者が居るものです、浅井家の先祖の言い伝えには公家の大臣家家格、正親町三条家(おおぎまちさんじょうけ)こと嵯峨家の出と称し、過っては藤原姓を名乗っていたとされています。 元を正せば藤原氏の家系とばかり”お江与の方”は嵯峨家所縁の女に没後定まります。…通例、嵯峨家と浅井家との確たる接点は不明とされております。
狭山市不動寺に保存される崇源院霊廟の丁子門  上)浅井長政家紋三盛亀甲剣花菱
          
この丁子門の側面の梁には三つ葉葵の将軍家紋金具の上の木部装飾部分に三ツ矢の様な装飾が見えます、これは三ツ丁子紋という嵯峨家の家紋です。
浅井三姉妹お江与の方は浅井長政の娘を誇りとして生きたと語られており、本来ならば浅井家紋「三盛亀甲剣花菱」が装飾される筈ですが、将軍家の家格顕示の前に果たせなかったのでしょう。…

嵯峨家家紋三つ丁子紋
相対的に生きる人間社会では上も下も、異なる環境といえども心理は同じ事なのか、自己顕示!似たような話は市井でもよく耳にするようです。 
幕末13代家定室”篤姫天璋院”も薩摩の今泉家出身ですが、時の五摂家近衛家の養女として将軍に嫁しております。
徳川将軍家世襲権力の悲しさ、後はお家安泰、お家騒動に明け暮れ初代家康、二代秀忠、三代家光をピークに権威は坂を下って行くばかりでした。

次回は実在する貴重な鎌倉時代の建築様式を残した崇源院霊牌所の行方、歴史経緯などを追跡いたします。……次へつづく…  ……前へ戻る

崇源院お江与の方》
(7) 春日局に係わる噂話
(6) 軌跡の接点 母娘お江与と千姫
(5) 大奥御殿、家光御出生の間
(4) お楽しみの切り口春日の局
(3) 今に残る霊牌所と各地重要文化財群
(2) 幸運奇跡の生涯-2
(1) 幸運奇跡の生涯-1