[将軍家][人物]  崇源院お江与の方 (1)−7 幸運奇跡の生涯

NHK大河ドラマが”江”と呼ばれる女性の話しとして始る紹介番組を何気なく眺めて、崇源院お江与の方の事と気付きます。 実はあのドラマチックな人物のクローズアップは遅きに失した感さえ抱きました。…
昭和20年の東京大空襲により被災廃墟と化した増上寺徳川将軍霊廟が昭和33年(1958)に実施された移転改葬の発掘に立会い学術調査にあたられた鈴木尚、矢島泰介、山辺知行氏三名共著の”増上寺徳川将軍墓とその遺品、遺体”(東京大学出版会)を参考文献として、私もHP”増上寺将軍霊廟物語”を書きましたが、二代将軍徳川秀忠正室お江与の方」の資料もかなり在りました。…
とかくシナリオ作家の歴史話は架空フィクションとして、かなり娯楽性があるものです。上記学者の著した調査学術文献をベースにした実態、実在遺構など追跡し、比較するのも面白いのではと考え、始めてみます。
しかしTV物語は楽しむもの、ここでは”江”の人生の概要に留め、遺構に重点を置き二代将軍秀忠正室の出来事として話しを進めましょう。
     
増上寺崇源院霊廟丁子門(現、狭山 不動寺保存)
先ず戦国を生き抜き稀有な運命の女性”崇源院お江与の方”の概要から。
増上寺徳川将軍墓とその遺品、遺体” 東京大学出版会   
 《埋葬された人々の略伝と系譜》矢島恭介著より。
崇源院逵子(みちこ)は江州(滋賀県)小谷の城主浅井備前守長政の女である。母は織田信長の妹で、おいちの名で知られた人である。長政は信長と戦って敗れた。 のち母は三人の女子をつれて家臣柴田勝家に嫁し、勝家が豊臣秀吉のために滅ぼされ、母は勝家と運命をともにしたが、そのとき三人の女を輿にのせて秀吉の陣におくった。 秀吉にとっては旧主の姪にあたるのである。
その三人のうち長姉は秀吉の側室になった。 世に淀君といわれる人である。次は京極宰相高次に嫁し、末女がこの崇源院逵子である。 はじめ丹波中納言誘勝に嫁したが、誘勝が朝鮮の役で歿した後、尾張の佐次与九郎一成に嫁した。 後小牧山の事件によって秀吉が丹波黄門にめあわせた。 次いで九條左大臣道房に嫁した。 道房歿したのちしばらく独身でいたが、秀吉のはからいで文禄四年徳川秀忠と縁組し、九月十七日伏見城に入輿し、次いで慶長十八年江戸城に入った。 二代将軍夫人として御台所と称されたのである。……
……寛永3年9月15日(1625)歿した。年は55歳であった。 9月18日遺骸を三縁山増上寺におくり、麻布がぜんぼうに荼毘所を設けた。「増上寺から荼毘所まで1000間の間筵を敷き、その上に白布10反を布いて1間ごとに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。 荼毘所は100間四方槍をもって垣をつくり、丹を塗り筵を敷き、達空、信人、梵行、究竟、の四門をたて、各門に額をかけ方ごとに幡10本ずつ四方40旒、火屋内構60間、……

と盛大に火葬に付すのですが荼毘所は現在の地図港区麻布台一丁目の東西にのびる我善坊谷です。
しかし不思議は将軍家族で火葬は最初で最後以後は一人もおりません。 墓は増上寺境内に巨大宝篋印塔と霊牌所が設けられました。
とにかく上記文章にもあるユニークな彼女の人生経緯を簡明にしてみます。
《浅井逵子(みちこ)、江、お江、お江与の方、崇源院 
生没 1573(天正1年)〜1626(寛永3年) 53歳
父…浅井長政→北近江戦国大名小谷城主(滋賀県長浜市
母…お市の方織田信長の妹。
浅井家の三姉妹…長姉→茶々、淀君豊臣秀吉側室。
          …次姉→初、京極宰相高次に嫁す。  
          …逵子→江、お江与の方、崇源院、二代将軍徳川秀忠正室。   
三姉妹の転変…浅井長政は浅井家三代目、要害近江北部の戦国大名、臣事、下克上、同盟、裏切りなど跋扈する戦乱の巷に生きた武将、信長に滅ぼされ自害。 長政は小谷城ろう城中に妻お市と子の三姉妹を城外に送り出す。
後、お市は三姉妹を連れ、兄信長の家臣柴田勝家と再婚するが、信長の死後秀吉と勝家が争い賎ケ岳の戦いで勝家は敗れ、越前北の庄城でお市と共に自害するが、三姉妹を輿に乗せて秀吉陣に送り届ける。…
秀吉にとっては旧主君織田信長の姪にあたる三姉妹を世話し、それぞれを落ち着かせます。 しかし秀吉没後再び豊臣、徳川の戦乱、関が原の合戦、大阪の陣となり、お江の長姉秀吉の室”淀殿(君)”は大阪城落城で子の秀頼と共に自刃。
”江”の婚姻暦…
(1)丹波中納言誘勝→朝鮮の役で戦死。(豊臣秀勝
(2)尾張の佐次与九郎一成→秀吉の意により離縁。
(3)丹波黄門→(1)の丹波中納言秀勝(豊臣秀勝)との重複記載の誤りか
(注)黄門とは→官職…中納言の中国名 (例)水戸黄門中納言徳川光圀
(4)九條左大臣道房→没。…? (不明)
(5)徳川二代将軍徳川秀忠お江与の方死去6年後に没(1632寛永9年 53歳)
江の結婚相手は終始、庇護者秀吉の意によって選ばれた者。(3)の丹波黄門に関しては不明。(4)九条左大臣道房は実在するも年代不一致。不明。
徳川家康の江戸入府5年後の文禄4年(1595)に豊臣秀吉の計らいで徳川秀忠16歳へ江22歳嫁す。
俗に徳川三百年と云い、将軍は15代を数えますが、各代将軍正室で世継ぎ将軍を出生した婦人は”お江与の方”一人です。
また、生した女児和子はのち後水尾天皇の後室中宮として第109代明正天皇(女帝)を出生する、お江与の方は天皇の外祖母にあたります。 また”江”は二代将軍秀忠に側室を認めなかったと云われ秀忠には側室と記される婦人はいない。 出生男児5名、女児3名。 
お江与の方”出生児詳細(父、二代将軍秀忠)…
長丸   1601〜1602  夭折
徳川家光 1604〜1651 徳川三代将軍
徳川忠長 1606〜1633 甲斐藩主 駿河府中藩主 甲府に蟄居、高崎藩預け、自害
千姫、天樹院 1597〜1666 豊臣秀頼室、本多大輔忠政室、落飾 
子子姫(ねね) 1599〜1622 加賀金沢藩主 前田筑前守利常室
勝姫   1600〜1672 越前北庄藩主 松平忠直
松姫和子 1607〜1678 後水尾天皇女御で入内、東福門院明正天皇の生母
初姫   1602〜1630 出雲松江藩主 京極忠高室
但し大奥女中、側女?お静の方出生の庶子保科正之のち会津藩主、4代将軍徳川家綱の補佐役がいる。
次回は二代将軍徳川秀忠室”お江与の方”崇源院の逸話や東京と近郊に多数存在する遺構などの探索をしてみます……次へつづく

崇源院お江与の方》
(7) 春日局に係わる噂話
(6) 軌跡の接点 母娘お江与と千姫
(5) 大奥御殿、家光御出生の間
(4) お楽しみの切り口春日の局
(3) 今に残る霊牌所と各地重要文化財群
(2) 幸運奇跡の生涯-2
(1) 幸運奇跡の生涯-1