[寺社] 参詣 (3)−3 浅草観音境内とラビランスの探訪。

有為転変、隅田川浅草エリアに世界一のTV塔が出現と今から楽しみにしている向きも多いようで、お江戸の象徴浅草観音境内周辺は昔から歓楽地として色々話題に為った場所です。
遠い昔、四代将軍徳川家綱の時代、すでに浅草花川戸の町奴幡随院長兵衛と旗本奴水野十郎左衛門の争いの舞台にもなる歓楽街ですが、以来変わる世の中、営々とその場所柄は今日に至りました。 昨今では”江戸っ子”風情丸出しの人も見掛けなくなり、反面、自身は”東京ッ子”程度は多いのでは。これから浅草はどの様な街に変わるのでしょうか? 変わらないのか?。
と云うことで、今回は明治以来の観音境内周辺のお話を参考に調べてみました。
浅草寺境内を横に歩くと何が見えるのか? 今回のテーマは雷門の大堤燈をくぐり人波に揺られながら仲見世を見物し香烟なびく観音堂前から参拝という定番コースを外れ横紙破に探訪してみましょう。

吾妻橋交差点から馬道通りを松屋デパートを右に見て五分も歩けば浅草寺参道二天門入り口に到着、すでに山門ごしには本堂前の賑わいが間近によく見えます。。
浅草寺は大正十二年の関東大震災にも良く耐えて残りましたが残念にも昭和二十年の東京大空襲による戦災で由緒ある堂塔伽藍の主要部分が烏有に帰しました。
しかし難を逃れた建物には国重要文化財二天門と浅草神社(三社さま)、さらに浅草寺本坊伝法院が在ります。二天門を入りますと右手に浅草神社と巨大な観音堂が並んでおりますが先ずはこのニ天門の由緒から。
今を去ること三百八十八年、二代将軍徳川秀忠日光東照宮と併せて浅草寺境内にも元和四年(1618年)に東照宮を建立した時の随身門が実は現在の二天門なのです。
今の日光東照宮は三代将軍徳川家光が更に豪華に改新築したものですから浅草の随身門(二天門)は時代として一代古い貴重な建築物です。
当時の東照宮神橋も境内に実存致しますが、私も全く知らず驚きでした。 追々境内の東照宮社殿の在った場所も特定したいと思います。
浅草寺に所属することでニ天門となりました元随身門脇の鳥居の神様が三社権現浅草神社です、お社は三代将軍徳川家光が慶安二年(1649年)建立の見事な権現造りで七、八年前に補修した煌びやかな社殿は観音堂と並んで建立されてますが、社殿は観音堂より、少し後方に下げた場所に位置しています。何故でしょうか?
観音様の御参詣にはこの三社さまの縁起を知らなくては困ります。
男はつらいよ”の車寅次郎さんは大道商売で「日本の始まりはヤマトの国…」などと、相変わらず、いい加減な事を言ってますが! 日本の元号の始まりは大化元年(西暦645年)と云われます。 が更に古い西暦628年のお話が発端です。
この付近は当時海辺で隅田川が流れ込み魚や海藻を獲る人たちが住み付いていました。 その中に檜前浜成、武成の兄弟がいて漁のさなかに一寸八分の黄金の観音像を網にかけて持ち帰り、戸長の土師臣中和と道端に草葺きのお堂を造りお祀りしたのが浅草寺観音堂の始まりと言われております。
尊い仏様の海中からのお出ましに努力した聖人としてこの庶民出身の三人組を祭神としてお祀りしたのが三社さまで更に東照大権現徳川家康公も祭神に加えて三社権現とも呼ばれ、 ともあれ格段の親しみが持てる神様ですが、それに比べ延喜式内社の神社さんは私達にご縁の無い神話から割り振りされた神様になってしまい古代を身近に感じられない気も致します。
人と鳩でいっぱいな浅草寺観音堂前にまいりました。
このお堂は敗戦後十三年を経て昭和三十三年の再建です。千三百七十五年前に海の中からお出ましになって以来、幾多の火災や災害を乗り越え善男善女の信仰を集めているご本尊様は今でもお厨子の奥深くに秘仏として御座しまして一寸八分の黄金の聖観音菩薩像と語り継がれますが、今だにお姿を拝んだ事を公言する人は居りません。しかしお厨子の中に存在の有無を話題にする罰当たりな人は江戸時代にも、たくさん居たようです。また、明治の時代、神国たる日本帝国を標榜して廃仏毀釈が吹荒れた頃、権力を傘にきた神祇官の役人が寺を訪れ無理やり厨子を開かせたと云われますが、なぜか詳細は口外しなかったと言う事です。後日、彼の目が潰れたかどうかはよく分りません?。  今も昔も庶民信仰の代表、浅草観音様の御利益を調べました。……”一心称名”し”忘己利他”の心をもてば解脱して現世に於いても御利益を授かれると諭されております。
すなはち南無阿弥陀仏と一生懸命に唱え自分のみならず他人様をも大切に考えた上で、色々のお願い事をすれば間違いなく成就されるという結構なお話しでした。
本堂の脇に樹木に囲まれ仏像、小祠、淫祠、が池畔に散在する一画があります。 それでは先ほど元東照宮随身門(二天門)から境内に入りましたが浅草東照宮は何処に在ったのでしょうか。
傍らの池を覗いてください、放生池と言い嗜好を凝らした石橋が囲いの中に架かっております、これが元東照宮の神橋で今は渡れませんが昔の善男善女の往来ですっかり磨り減っているのが良く分ります。 江戸時代に思いを馳せるのも一興かと思いますが如何でしょうか。 因みにこの石橋は東京に残る最古の橋という事です。
東照宮は何処に? 橋の先に影向堂(ようごどう)が暫く前にニ天門付近から移転改築されてておりますが、その向かいに数十年前には淡島堂がありました。江戸時代の記録には東照宮焼失跡地に淡島堂を建立と記されておりますのでこの一帯が社殿の在った場所と推定されます。また神橋の向きとも合致しているのです。
この一画には江戸時代の祠などの小建築物が多数残り、橋本薬師堂(慶安二年、1649年)、六角堂(元和四年、1618年 木造都内最古)があり他にも多数の仏像、石塔、石碑などもあり一回りの価値があると思います。
ここから少し離れた場所にある現在の淡島堂は昭和二十年の戦災で焼失した観音堂の再建までの仮観音堂を転用したものです。
(念の為、しばしばの境内整地などで境内の小祠の多くが建立時の位置からは移転集約されて存在します。)
また現在もこの広大な境内各所に散在する多数の仏像、石碑などは町人、遊女、文人、慈善家、武士、役者、芸人、あらゆる階層に及ぶ遺構であり詳しい説明板も完備しており隈なく探索すれば時間がかかると思いますが必ず江戸時代の未知の事柄に出会う事が出来るでしょう。
この辺で今では余り話題にならない浅草寺の歴史の生き証人をご紹介しましょう。
境内の交番前にある大銀杏の樹です、何度もの火災で焼かれ戦災では本堂とともに丸焼けになりましたがこの樹の空洞の樹芯を覗くと炭化の状態になっておりますが、葉を茂らせて健在です。
樹齢六百年のこの大銀杏の樹は江戸時代の明和(1760年代)の頃この樹の下に在った水茶屋柳屋の美女お藤が鈴木春信の錦絵に描かれており、色々と浅草寺の変遷を見守って来た唯一の存在かも知れません。


それではここから聖域を離れ俗域へと入ります。
私自身の天辺(てっぺん)を見れば『僧に似て塵有、俗に似て髪なし』の風体ですが。
ここからは十二階こと凌雲閣跡の界隈が目的地です。明治、大正時代にこの辺りはどのような場所だったのでしょうか、昔の話が頼りです、文士の文章の断片から窺ってみましょう。
永井荷風随筆集 葡萄棚 (岩波文庫
……今わが胸に浮出る葡萄棚の思いではかの浅間しき浅草にぞありける。二十歳の頃なりけり。どんよりと曇りて風もなく雨に間ならぬ秋の一日、浅草伝法院の裏手なる土塀に添える小道を通り過ぎんとして忽ちある銘酒屋の小娘に袂を引かれつ。
……まだ肩揚げつけし浴衣の撫で肩ほっそりとして小ずくりなれば十四、五にも見えたり。
気の抜けし麦酒一杯のみて後、娘はやがてわれを誘ひ公園の人込みの中をば先に立ちて歩む。その行き先いずこと思えば今区役所の建てる通りの中ほどにて、町家の間に立ちたる小さき寺の門なりけり。
門のうちに入るまで娘は絶えず身のまわりに気をくばりていたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添いて手をとり、……娘は奥まりたる離れ座敷とも覚しき一間の障子、外より押し開きてずかずかと上にあがり破れし襖より夜のもの取出して煤けた畳の上に敷きのべたり。     あまりといえば事の意外なるにわれはこの精舎のいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠家とはなれるにや。
問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃出でんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出出て再び葡萄棚の蔭をすぐる時熟れる一総の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠のような声を立ててわが袖を捉え忽ちわが背に捩り攀ぢつ。片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の房を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻あまたに飛出る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。本堂の方に木魚叩く音いとも懶(ものう)し
。……(区役所は現在の浅草公会堂)
 今東光 吉原哀歓より(徳間書店
……千束町の一隅に凌雲閣、通称は十二階という高層展望塔が建ったのだ。初めこそ物珍しいので入場者も多かったのが、次第に寂れて仕舞った。その脚下の千束町の一角に妖しい花が夜になると咲いたのだ。
……ひさご通り西側の千束二丁目の一帯。東側は象潟よりの一小地帯。それから観音堂の裏側という思いのほか広大な地域にまたがって何百という銘酒屋、新聞閲覧所、造花屋などが犇いていて、そこに十二階下の白首と称せられる私娼が何千人と働いていたのだ。……歩いて行きながら一つの路地から次の路地へ入った途端、びっくりするほど間近く黒々とした十二階が覆い被さるように立っていたりする。まったく何処を歩いているのか見当がつかない。……

 加太こうじ 浅草物語(時事通信社
……十二階の裏手には売春街があった。女を売るのか酒を売るのかわからないから、あいまい屋といわれたが。銘酒屋というのが一般的なよび方だった。ちいさな、せまい二階建ての仕舞屋(しもたや)風の家が、くっついて建っていて、そのあいだを細い道が行き止まりなく曲がりくねって続いていた。
家々には小窓があってそこから女が通行する男たちに「ちょっと」と、声をかけていた。十二階下の売春街は魔窟といわれていたが、関東大震災後、取り払われて、川の向こうの玉の井と、亀戸の天神様に近いあたりに分散移転した。……

なほ文中の銘酒屋を普通、東京ではメイシ屋と呼んでおりましたが、これは多分昔の東京独特な訛りで百円をシャクエン、出発をシッパツ,魚のヒラメをシラメ、病院の手術をシジツ、などの類かと思われます。
さて、現代では昔日のラビリンスの面影はなかなか見つかりませんが強いて捜すとなれば旧瓢箪池を戦後埋め立てた場所に当る一画はここが賑わう観音境内の隣かと思われる閑散とした不思議な場所でもあります。
六区の場外馬券場の浅草ウインズ、花やしき浅草観音境内、木馬館に囲まれており幾筋もの路地がはしり、なかでも初音通り付近の藤棚一帯の小さな店の並ぶ飲み屋街は疎らな人通りの昼日中でも歩けば、おばさんから店に寄ってと声がかかります。
この一帯は商店もありますが余興や芝居の小道具や着物屋などが並び、浅草以外では存在しない様な特異な道筋でもあります。
浅草寺境内から十二階跡地へは略地図を参照してお好きなように歩いてみてください。現在の浅草二丁目13−10番地の十二階跡は狭い路地奥で焼肉店などになっておりました。
他所から来ると、この界隈全体としてはなにか曖昧(あいまい)で胡散臭(うさんくさい)い雰囲気が多少あるのではないでしょうか。
今は辛うじて花屋敷遊園地、ひさご通り、六区、米久牛鍋屋、などが名前を留めています。
なかでも六区映画館街などはニ三十年前までは懐かしい戦前の建物が林立しておりましたが、今は昔に比べ素っ気無い街並みになってしまいました。往時のエノケン、ロッパはともかく、戦後のストリップ小屋から輩出した煌びやかな芸人達の底力を語り継ぐだけなのでしょうか!
とは言え浅草と云うところは昨今でも、昔ながらの表裏の顔が平然と隣り合わせに存在しており、未だに魅力的な場所柄なのかとも思います。 なお”ひさご通り”はその昔浅草から吉原遊郭に通う男達のメイン通りとして賑わった道です。    ……前へ戻る

《参詣》
(3) 浅草観音境内とラビランスの探訪
(2) 成田山参詣:人の行く裏に道あり花の山
(1) 葛飾柴又帝釈天は東京のイーストエンド