[寺社] 参詣 (2)−3 成田山参詣:人の行く裏に道あり花の山。

年初の初詣といいますと関東屈指のお寺さん、庶民に人気の成田山新勝寺があります。 私も何度かお参りした記憶では、うなぎ料理屋、食堂、旅館、羊羹屋、漬物店、土産屋など建物が懐かしげな雰囲気を参道に醸しておりました。 決まり! 成田山に行こう。…
とは言え新年になれば、参道の人波に乗せられて精々お賽銭を上げるのが精一杯、御本堂まで辿りつけるか心配です。
”そこで忠治は考えた”、皆様が忙しい暮れの盛りに、こっそり御参拝を済ませる、「人の行く裏に道あり花の山」という謀です。 
御本尊は不動明王さま、そこは、それ仏様の事でございます、こちらの考えは手にとるように丸見えです。お賽銭に心をこめればきっと初詣と同じ御利益を戴けるものと固く信じる事に決めました。 年内は大晦日の昼間までゆっくり御参詣ができます。
新勝寺不動尊境内は記憶にあった昭和2,30年代とは一変し大本堂、平和大塔や光輪閣などの巨大建造物と新総門も落成しており、また私の参詣の目的の一つである多数の文化財建造物が入念に保存されていた事です。
更に広大な裏山は成田山公園として手入れの行き届いた大庭園で、参詣者には早速功徳を戴ける事になります。
     
上)新本堂 下)光明堂
            
特に成田山新勝寺以外では先ず存在し得ない文化財として、成田山新勝寺中興第一世貫主照範上人以来の歴代不動堂(本堂)が保存されて来ました。 
 注)現貫主 中興第21世橋本照稔上人。
《実存の新勝寺歴代本堂》
本堂  建立 1968(昭和43年)〜現存…大本堂…境内  
本堂  建立 1854(安政5年)〜1968(昭和43年)現存…釈迦堂…境内 (国重文)
本堂  建立 1701(元禄14年)〜1854(安政5年)現存…光明堂…境内 (国重文) 
本堂  建立 1655(明暦元年)〜1701(元禄14年)現存…薬師堂…参道 (寺有地内)
以前参詣した時の本堂は現在釈迦堂として大本堂近くに保存されて、現本堂がいかに巨大耐火建築物か、比較実感出来ましたが困った事にお寺さんは木造建築でなくてはと拘る贅沢な私でありました。
境内古文化財建築物を拝観しようと気もそぞろでしたが、…しかし、ここは確りと不動堂(本堂)内で執り行われる真言密教護摩祈祷の儀式に参列拝観をお勧めします。
まず儀式を行う僧侶導師の行列が境内を本堂に歩いて参りますが美しい袈裟の色、緋の傘など昔の絵巻でも見るようです。
荘厳な本堂須弥壇前で僧侶の読経の音声高らかにに焚かれる護摩の火は不動明王の火炎なのか、燃え上がります。
突如、大太鼓の大音響が堂内に響き渡り雑念など吹き飛ばされる心境は空海以来の密教の伝統加持祈祷の本髄なのでしょう。 なにか、すがすがしい気持ちになりました。
ちょっと太鼓の話が出ましたので、寄り道いたします。 日本人にとって色々な宗教に用いられ、お祭りでお馴染みの太鼓ですが、御城の太鼓や陣太鼓など昔から身近なもので、私は子供の頃の紙芝居屋の太鼓(洋太鼓)、締め切った天理教教会から洩れ聞こえた太鼓、朝晩寒くなる頃の夕暮れにお会式の行列の団扇太鼓を思い出します。
ところで江戸っ子の軽口話でよく知られる『だんだんよくなる法華の太鼓』は御年配の方は聞き知った事ですが、! 直接的な意味は、お会式に日蓮宗の信者の行列が団扇太鼓を叩きながら練り歩き御祖師様(お寺)に繰り込みますが、寺に近くなると徐々に熱狂の度合いが高まり、太鼓が破れるばかりに打ち鳴らして高揚する様子です。! ……これを自分や世間の事柄に転化想像する言葉遊びでして、上品な人はそれなりに、そうでない人はその様に楽しむ笑話です。
成田山を参詣して私も『だんだんよくなる法華の太鼓』をモジッてみました。
…突然よくなる(鳴る)不動の太鼓……護摩祈祷儀式の本堂内で。
…だんだんよくなる(成る)成田山……歴代本堂の進化を拝観して。なお御護摩は一日何度か時間割が決まっているようです。
話の経緯で急に不動堂から始まりましたが本来はJR成田駅前交番うらの参道入り口に在る湯殿山権現社から順次参道を歩かなくては為らないのです。この神社が成田山新勝寺の聖地とされております。 
なぜか? 不動明王本地仏である大日如来の祭礼成田祇園会(祭)の前身が成田山により創建された湯殿山権現社の牛頭天王(ごずてんのう)の祇園祭だったのですが、明治初期に新勝寺が引き取った御祭礼です。
薩長公家による明治新政府の日本文化破壊の象徴”廃仏希釈”による神仏分離令国家神道を制定、神国日本を創作する政治の傷跡が未だに宗教の世界に残されております。
牛頭天王大日如来の組み合わせは奇妙に思えましたがインド祇園精舎の守り神が牛頭天王ですから仏教的な繋がりなのでしょう。 成田山祇園会は初詣に劣らぬ庶民の盛大豪華なイベントにもなっております。
それでは更に参道の門前街を歩きますと三叉路に出ます。
ここの小高い場所に小さな薬師堂があり、これが成田山新勝寺の明暦元年(1655)建立の旧本堂で四代将軍徳川家綱と五代綱吉の時代のものです。境内からを移築されました。
この粗末な建物は当時の成田山信仰の心細さですが、ここからが成田山隆盛の始まりなのです。
13代貫主宥澄がこの本堂を再建し以後徐々に寺勢が上がり元禄14年(1701)に本格的な新本堂(現、光明堂)が再建され、時の貫主成田山中興第一世貫主照範上人が元禄13年に就任しておりました。
正に照範上人は中興の祖として活躍し現在の寺勢繁栄の基礎を確立いたします。 先ず堂宇の整備で寺観を整え、お江戸は深川永代寺境内に不動明王御本尊の御出張を頂き御開帳を度々開き、はたまた成田在出身の歌舞伎役者市川団十郎(成田や)の篤き信仰を得て自ら不動明王を演じたり成田山の御加護の芝居などで、江戸っ子の成田山信心が益々盛り上がるばかりで各地より成田へ講を組み成田詣でが集まりました。 昔は信心とは云え、大山詣、伊勢詣など遊山が付き物で、なにが目的か分らない落語噺なども面白いですが成田詣では成田街道の起点、船橋宿で破目を外していたようです。
”成田や”と言えば、昨今の市川海老蔵のトラブルは所詮梨園の御曹司などと世襲を玩ぶ愚かさか? 荒行の修行でもさせるべきでしょう。
何といっても護摩祈祷の迫力は参詣者を感動させ、身代わり不動尊のお札など不動明王の御加護を求め全国からの信仰を未だに集め、私が思い起こしたのは銚子漁港の有力漁業会社(茨城、波崎)の漁船名に”成田不動丸”の記憶があります。
また広大な境内随所で石垣は寄進者名の無数の石材で構成され、今後も更に増えてゆくのでしょう。
特に明治時代の庶民信者に興味のある方は成田山東京別院深川不動堂』の石垣や巨大灯明台などを構成する各石材に刻された名前を見てください。 花のお江戸の場所柄か、女郎屋楼主、魚河岸、料理屋、歌舞伎役者、芸者屋、肥料干鰯商、回漕業、商人など多彩で、根津遊郭から洲崎に移転した”八幡楼、辰八幡楼、並八幡楼”の石や、何処の遊里か?”金玉楼、佐藤悦二”とか読み方に注意が必要な名前まであります。また、深川不動尊護摩祈祷の迫力は特別と云えるでしょう。
     
          
薬師堂から成田山にかけて、通りの景観は魅力的です、享保時代(1716〜)に構成された門前町といわれ、カニ歩きで横に行ったり斜めに行ったり目をキョロキョロすると意外に楽しめるかと思います。 自動車にはご注意を!!
間もなく新築落成なった総門(山門)前に出ます。ここから境内に真直ぐ成田山名物仁王門の石段を上がり切れば大本堂の威容に圧倒され、広大な境内と裏山(成田山公園)が展開しているのです。
本堂で御本尊不動明王をお参りして、後はお好み次第ですが、折角ですから境内に散在する文化財建築物や大庭園(成田山公園)の探索がお勧めです。
なお東京の寺社仏閣のお参りと違い比較にならない広大な境内を歩くにはスニーカー位が適当かも、一日が短く感じます。
境内各文化財には詳細な説明文が表示されています。 成田山新勝寺縁起については昔のその昔、平将門討伐の祈願で天皇の命で成田に配された僧寛朝が寺の開基といわれてますが、平将門フアンの私には馴染まない話で、パスしました。
詳しくは新勝寺のHPで、また境内配置図などもお調べください。
  成田山新勝寺HP
前記成田山祇園会に関連して、明治新政府に神社名と祭神を変更させられた神社の一例。
   《現 神社名》           《旧 神社名》
● 八坂神社(京都)         祇園社(京都)
● 春日大社             春日権現
● 熊野本宮大社          熊野権現
● 浅草神社  (江戸三大祭の内) 三社権現社  
● 神田神社  (江戸三大祭の内) 神田明神
● 山王神社  (江戸三大祭の内) 日吉山王権現
● 品川神社             品川牛頭天王社
● 千葉神社             千葉妙見宮
● 素盞雄神社(南千住)      牛頭天王社
   (すさのお)         
仏教の守護神、牛頭天王は印度から中国を経て日本に受け入れられた時は疫病を退治する神として急激に崇められ江戸民衆の呼ぶ”てんのう様”とは牛頭天王の事で天皇さまではありません。
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《参詣》
(3) 浅草観音境内とラビランスの探訪
(2) 成田山参詣:人の行く裏に道あり花の山
(1) 葛飾柴又帝釈天は東京のイーストエンド