[経済][歴史]  糞尿譚(5)−6 江戸東京リサイクル昭和へ。

ここまで話が進みましたが、実は敗戦後昭和20年代も屎尿処理に係る慣習は江戸時代とさほど変化はなく似た状況が続いておりました。
では、ものは序でと御婦人の習慣も覗いてみましょう。
 寅さんのセリフにも、『…四谷、赤坂、麹町、ちゃらちゃら流れる御茶ノ水、粋な姐さん立ちショウベン…』と調子よく大道商売をしておりますが、
今では余り知られない習慣、女性の立小便が江戸時代は勿論、昭和になっても残っていたようです。 
うっそー、マジか、などと云われそうですが、私も子供の頃、戦時中の疎開先では特別な事でもありません、しばしばお目に掛かったのは汽車の停車場の男便所(コンクリートで便器はない)では、しばしばオバサンが立って用をたし、こちらを見てニコニコしておりました。 と云う事はお尻は向こう向きの構図と記憶しております。
また、田舎だからとお考えの方には上流階級のお話もご紹介、
 小説 ”斜陽” 太宰治 新潮文庫 から。
……私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、……お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍らの萩のしげみの奥へおはいりになり、それから萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」と申し上げたら小さい声を挙げて笑いになり、「おしっこよ」とおっしゃった、ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、……

私の見聞はここまで、現代の風習は良く分かりませんので悪しからず。!
それでは下肥(屎尿)として売買された形態を見てみましょう。
…下肥の流通は、ごく近在の農民は馬の背など利用して直接汲み取りも可能でしたが大多数は農民の下肥業者から購入する事になりますが、さらに江戸の人口が増加し農地が拡大すると流通経済の重要な商品として各地の河岸場には下肥問屋などが出現、次第に企業化して行きます。
やはり、資料から御理解いただくのが最善かと考えます、以下
トイレ考屎尿考 NPO下水文化研究会屎尿研究分科会 技報堂出版
…佐野家は今の足立区佐野町に居住していた豪農ですが、船頭を雇って下肥業もやっていました。 
下肥の仕入れ場所は、主に神田や本所で、慶応三年の場合、一年に180両を支払って1〜4年期の下掃除権を買っています。
そして、この年には、約60艘分、3780荷(桶の数にするとこの倍になります)の下肥を仕入れています。 佐野家の下肥購入者は、荒川や中川の流域に点在し、3〜4日かけて販売先に運んでいます。
佐野家は名主とはいえ、もともと農民であり、農業の合間に下肥業を行っていました。 しかしながら、大きな資金を必要とし、取引量や金額も多かったので、単なる農間余業ではなく、立派な経営でした。まさに下肥業といえます。…

江戸時代後期の江戸人口増加から、周辺農家は盛業して下肥の取得に苦労しますと仲介業者の暴利取得が目に余ります。
戸田市の郷土博物館に在る資料には明治も近い慶応三年(1867)、関東取締出役(通称、八州廻り)の資料には、下肥商人が掃除代や下肥代を吊り上げていること、また船頭が川の水を入れて下肥を薄めて増量する事に対して”けしからん”行いと述べております。
この水割り増量肥料の割り出しには買い入れ問屋は下肥桶に指を入れてなめて濃淡を調べたという話もあり。 この舐める習慣は農民も下肥を枯らし作物に播く時には水で薄めて、混合の割合を舐めて確かめたといわれます。
     
            
葛飾区郷土博物館昭和の東京の街、下町、山の手のお話に移ります。
皆様御存知のバキュームカーが使用される以前は江戸時代と全く変わらず柄杓(ひしゃく)で木樽に汲み取り、天秤棒で担ぎリヤカーに積み込んで運びます。
昭和20年代の東京都清掃局のシステムは集めた肥樽を道路の一角に集積して、迎えの大型トラックの木槽に渡り板を架け作業員は器用に2樽を天秤棒で担ぎあげ、木槽に移す作業をしておりました。 
一部海洋投棄分は水道橋交差点の神田川岸の清掃局施設から艀に積み替へドドドッと流し込む作業は電車の窓からの日常の風景です。
都会の一般家屋の便所は大きな”焼き物の甕”を埋め込み糞尿を貯めた便所の外側に汲み取り口を設けてあり各家とも同じ構造。 
小金井市江戸東京たてもの園には都心部から移築した大きな商店の建物からも汲み取り便所の構造がよくわかり、また漫画家滝田ゆう著”寺島町奇譚”には下町の人々と汲み取りが融和した生活振りで描かれています。
では戦前、子供の私が記憶に残る東京駅丸の内乗車口の巨大便所の構造、…大、小に別れ現在とさして変わりませんが、大の方は一列に並び便器の下に浅い溝が樋(トイ)のように各便器下に通じており、水洗式ですが、水は自動の間歇式で川の様に上流から流れて来ます、流れの合間は遺留物はそのままです。  
当時、普通の国民生活では未知の水洗トイレの導入は、自らレバーを操作して水をながす動作は理解の外であったのか? 苦肉のメカニズムかも知れません。
現代の生活に程遠いい東京の生活実態が分ります。……次へ続く…  ……前へ戻る

《糞尿譚》
(6) 江戸東京リサイクル
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(2) 西武鉄道、東武鉄道の屎尿輸送 -2016 08 14更新-
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