[経済][歴史] 糞尿譚(6)−6 江戸東京リサイクル

現代日本人の清潔志向は色々と話題になり外国人の話からも窺えますが、私達戦中派の体験からは糞尿と切っても切れない日本人の生活実態があるのです。今回は江戸東京の糞尿譚から下水道、更にはウオッシャブルトイレに至る経緯を眺めてみました。
それでは昔のその又昔の話から、初代江戸城築城の主と云われる太田道灌は長禄元年(1457)、今の江戸城本丸跡付近にささやかな城を築いたと云われ、当時の様子は道灌の有名な一首が残っております。
 ”わが庵は松原つづき海近く
          富士の高嶺を軒端にぞ見る”
という事で日比谷あたりは海辺であった事が分ります。
天正元年(1590)には小田原北条氏との戦の恩賞に秀吉から広大な関東を与えられた徳川家康が江戸入府しますが江戸城築城に当り内濠として日比谷の海辺に流れ込む平川を利用し江戸城の内堀として、今でも平川門、平川橋、平川濠と名を留めており、これが現在の神田川(平川)の昔の流路でした。
           

江戸城平河門、大奥出入り口
では、究極の糞尿お江戸リサイクルの核心である舟運と河川の話に移ります。
徳川時代日本橋川下流から江戸橋、日本橋を逆上り一石橋に至り、ここから真直ぐに江戸城の内濠まで道三濠を掘削し、舟の往来を可能にします。この水路を利用した有名人に江戸城御用下掃除人で大奥不浄物を一手に引き受けた葛西権四郎さんです。 彼は道三堀を利用して屎尿を舟に積み込み葛西の農村部に運び込んで財を築きました。 
なぜか? 江戸時代は農地の肥料として下肥即ち糞尿は貴重なもので江戸の街には各地の農民が汲み取り権を持ち、舟に積み込み農村に回漕して利用しましたが、この通称”汚穢(おわい)舟”が、お江戸の水路の奥まで入り込みましたので、いつの間にか汚穢舟を葛西舟と呼ぶ様になり、戦後まで定着しておりました。 お蔭で最近まで葛西地区のイメージに汚穢を結び付けていた年寄りも居たようです。
この究極リサイクルのお蔭で日本のお江戸は当時のヨーロッパ各都市に比べて飛び切りに清潔な街であったと云われます。
それではいよいよ、お江戸の屎尿との密着した生活の一端を覗いて見ますが、話が話だけにお上品には進まないと思います、悪しからず、くれぐれも御願い致します。
農家の購入肥料には金肥と云われる銚子港から高瀬船で運び込まれる干鰯(ほしか)油粕などと、下肥といわれるお江戸の屎尿がありますが安価で効き目のよい下肥が実質的には唯一の肥料で『軽蔑すれば罰が当る』と言われ、今日の様に臭い汚いの観念を越えた貴重な商品でありました。
屎尿理経過の大要。…江戸時代初期の頃は無料で汲み取らせていたようですが人口増加につれ農民の生活を支える現金収入の道を開いた野菜作り農家が増え元禄(1680年代)頃から屎尿は商品として取引され江戸後期にかけては百万人のお江戸と農村との間に究極の大リサイクルが展開しております。 
この構図は規模が縮小されても昭和二十二三年頃までは続きますが、化学肥料の普及から農業利用が途絶え、以後は廃棄物として伊豆大島沖周辺海域で海洋投棄が行われつつ下水道処理の普及と共に現状に到達いたしました。
ところで商品屎尿につきましては当然肥料としての効き目において、値段のランクがあり上等から下等の順は、
 一番、勤番、主に大名屋敷の屎尿
 二番、町肥、江戸の町方の家、長屋のもの。
 三番、辻肥、四辻などに農民が設置した便所の屎尿
 四番、お屋敷、これは牢屋敷などで最下等。
最上等の勤番の標準価格は町肥の4、5倍の値が付いたそうですから、ちなみに葛西権四郎さんが集めた江戸城大奥の屎尿は更なる高級品として大きな利益を上げていた事と想像できます。
特に気が付いたことは食生活の質で肥効に格差とは面白い発見でした。
当時のお江戸の街は武家、社寺仏閣でその七割が占められ、町方は残りの三割に犇き住んでいましたので商家等を除けば江戸庶民は落語でお馴染みの長屋住まいですから、やはり、このお話でも”大家さん”の登場となります。 
江戸時代の”家主”こと”大家”は長屋のオーナーではなく管理運営を一切任された使用人なのですが、お上から町役として店子(たなご)の身分保障、責任を負わされた反面、店子には権力者でもあった訳です。 注)家主⇒江戸時代の家持と大家との両義語。
江戸長屋の後架、深川江戸資料館
大家と店子の関係を江戸時代は”大家と言えば親も同然,、店子と言えば子も同然”と例えております。
便所が家の中にあれば糞代はその家の収入になりますが、長屋の共同便所(後架、コウカ)の場合は江戸では大家さんの収入になりました。
大家の実入りは年のお手当てが二十両で余得が十両、糞代が十両と、おおむね三、四十両になったようで、一両を現在の十万円を目安にすると当時の隠居の身では恵まれているのでしょう。
よく落語などでは大家に、こっ酷く小言を言われた店子が腹立ち紛れに”明日から長屋では糞などしてやらねえ”と毒づいたりしてこの辺りが推測できます。
「肥取りへ尻がふえたと大家言い」 「店中の尻で大家は餅をつき」
ここまで来ますと江戸トイレ事情も一寸調べましょう。 
大体徳川時代に入ると便所が出来たそうですが、初めは外トイレが家屋にくっついた形での間取りであり、長屋では共同の後架と称する外便所でしゃがんで頭が見える程度の扉が付いた物で江東区の深川江戸資料館には復元された物がありました。……前へ戻る

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