[交通流通][歴史][産業] 昭和モータリゼーション(1)−8  オート三輪の時代

夏は暑いものとは承知の上ですが、殊更に暑い暑いで毎日を過ごしております。季節柄、趣味のお江戸東京探索歩行もままならず、ブログに逃避では?決してありません!が、よろしくお願い致します。…
今では物流大手の御存知”佐川急便”の創業者はリヤカーを引き運送業を始めたと云われます。戦前戦後の一時期は大八車、荷馬車(馬力)、リヤカーが活躍した時代でした。 

オート三輪三輪自動車)は戦前ハーレーダビドソンの輸入車に加え国内メーカーも参入しておりましたが、太平洋戦争を期に軍需産業に一転、敗戦を迎え仕事を失った会社が日本復興の運搬手段として開発参入したのが、オート三輪です。 簡易、安価、高性能を競い一世風靡したのです。
時代は本田宗一郎が本格的バイク「ホンダドリーム号」を開発売り出した時期、昭和20年代後半で当時オートバイと云えば、白バイ警官の乗る陸王(ハーレーのライセンス)や新聞社玄関に並ぶピカピカの「トライアンフ」「BSA」「ノートン」「アリエル」「BMW」を眺めたものでした。
脱線ついでに、当時のタクシーは輸入車とノックダウン車全盛でオースチンヒルマン、ルノー、ワーゲン、シトロエン、ヘンリーJ、国産車トヨペット(関東ボデー、関西ボデー)、ダットサンです。
官庁公用車はアメリカ車、警察のパトカーはシボレー(米陸軍仕様)で、当時の通産省のお役人が日本の自動車工業のガイド基準で将来に於いて先進諸国の乗用車水準に達成は無理と断定し貨物自動車製造に特化すべきとの話が新聞紙上を賑わしております。 
ホンダ技研の乗用車参入計画に際しても、役人との交渉では本田宗一郎は激高『この馬鹿面』と官僚を罵倒し揉めたそうですが、エリート官僚の産業未来像が宗一郎に遠く及ばなかったエピソードです。

敗戦後窮乏した社会に再登場したオート三輪は安価、実用、経済性を追求した傑作自動車でガソリン機関のベーシック、簡素な構造を売りとして、ハンドリングにも優れ、人気は普通四輪車を寄せ付けないダントツの存在でした。
しかし、この車が期せずして衰退、絶滅の結末は、やはり必然であったのか? 追々追求します。 また、この愛すべき自動車の運転操作や保守点検の簡素なハンドリングなども公開します。   。……次回へつづく


写真)上)マツダオート三輪の最終発展モデル 下)マツダLB型昭和25年(1950)懐旧のオート三輪史 グランプリ出版 より

《昭和モータリゼイション》
(8) 自動車会社浮沈の根源は、
(7) バックグラウンド道路 
(6) 自動車大国の起点とマイカー指向へ
(5) 昭和20〜27年の歩み
(4) 楽しいオート三輪 ハンドリング
(3) オート三輪は戦後のヒーロー 
(2) オート三輪盛衰記
(1) オート三輪の時代