[地域] 新宿界隈由縁の人々(3)−6 内藤新宿宿場の有名人

先ずは地名の変遷から、……江戸時代に成立した甲州街道内藤新宿と呼ばれた宿場からですが、江戸は四谷の新宿町…と云う事で、新宿のルーツは現在の新宿通り大木戸交差点付近から新宿三丁目(追分)交差点、伊勢丹辺り迄が内藤新宿と呼ばれた街道宿場かと考えられます。 成立は五代将軍徳川綱吉時代、元禄十一年(1689)幕府により開設され、従来の甲州街道第一番目の高井戸宿の手前に新たに出来た宿、即ち新宿と呼ばれたのです。似たような場所が、品川宿にもあり、歩行新宿(かちしんしゅく)と呼ばれ、本来の品川宿の更に北、江戸寄りに歩行人足の問屋が出来、宿場へと発展します。ここは幕末有名な旅籠の「土蔵相模」や「島崎楼」の在ったところで、また落語の”品川心中”や”居残り左平次”の舞台で、品川宿の新たな街筋が歩行新宿でした。

太宗寺江戸六地蔵さて、この内藤新宿一帯の遺構の中心的存在が江戸六地蔵で、有名な太宗寺は境内に閻魔堂や徳川家臣の信州高遠藩内藤家の墓地などがあります。近くには家康公江戸入府で活躍した二代目内藤清成が家康公から賜った旧地に新宿御苑が在り、高遠藩内藤家中屋敷の跡です。 その他、宿場女郎(娼妓)の投げ込み寺成覚寺の境内には子供合埋碑(ごうまいひ)や旭地蔵、鈴木主水白糸塚が残され、靖国通りに面しています。特に子供合埋碑は宿場娼妓として親に売られた女達は未だ肩上げも取れない少女達も多く当地の妓楼楼主は女郎の事を子供と称していたそうです。…宿場新宿の名物は昔から馬糞と宿場女郎です、先ず誰でも御存知の八木節でも唄われる…… 
花のお江戸の そのかたわらに 聞くもめずらし心中話 
ところ四谷の新宿町の 紺の暖簾に桔梗の紋よ 音に聞こえし橋本屋とて 
あまた女郎衆のあるその中で 御職女郎しゅで白糸こそは 愛嬌よければ皆人様が
われもわれもと名指しで上がる
分けてお客はどなたと問えば 春は花咲く青山辺の鈴木主水と云うさむらいが
女房持ちにて二人の子供 二人子供のあるその中で 
今日も明日もと女郎買いばかり、………

投げ込み寺成覚寺の娼妓合埋碑内藤新宿ゆかりの人物第一番は鈴木主水と娼妓白糸が上がりました。次は未だに残る宿場のシンボルとして江戸六地蔵を建立した江戸深川の地蔵坊正元さん、更に現代風につなげると夏目漱石芥川龍之介、その後に高遠藩二代目藩主内藤清成と続きます。
では、夏目漱石が亡くなる一年前の大正4年に発表した自伝小説「道草」には彼の幼年期から英国留学後の大学教員時代の波乱の人生がしたためられてあります。では、幼少期の内藤新宿との関わりを調べてみましよう。
………漱石は幕末慶応3年(1867)牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)の名主夏目直克の五男として出生しますが、直ぐに里子として古道具商に出されたのです、母親千枝は高齢出産を気に病み、父も望まない赤子として疎んじたのです。この親の薄情は幼少期心の重荷となっていたようです。古道具屋店頭で籠に入れられ置かれた姿を姉が見つけ連れ帰ったのです。が、一歳になると、今度は養子に出されます、養父となる塩原昌之助とは父の雇い人ですが信用を得て内藤新宿の名主株を買い与えられた人です。しかし明治御一新で名主制度の改革で新制度の添年寄としで浅草三間町に養家一家は転出します。が、直ぐに新制度が廃され一家は再び内藤新宿に戻り休業中の妓楼伊豆橋の留守番として住み込み、金之助(漱石)4歳の時です。その経緯とは
…自伝小説「硝子戸の中」29章より………
私は両親の晩年になってできたいわゆる末っ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰くり返かえされている。  単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後ち聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
私はその道具屋の我楽多といっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝らされていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想とでも思ったのだろう、懐ふところへ入れて宅へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱かられたそうである。
私はいつ頃その里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった………
………夏目金之助が幼児の目で描写した内藤新宿の妓楼伊豆橋の文章は自伝「道草」に記されておりますが、次回に、…その前に養家一家が妓楼に住むいきさつの推理とは………金之助(漱石)の実母ちえ(千江)は四谷大番町の質屋福田庄兵衛の三女で大名家の奥女中から結婚、離縁、…姉であった長女「つる」の婚家高橋長左衛門養女となり、…金之助の実父の名主「夏目直克」と再婚し後妻に納まった人で、金之助の実母です。更に異母姉(夏目家長女)佐和が金之助の実母千江の実家質屋の福田庄兵衛の跡取り息子と結婚している話もあります。……
実は、この実母ちえの実父質屋「福田庄兵衛」は貸し金の担保として妓楼伊豆橋を入手して妓楼経営を始めています。即ち夏目金之助の実母千江の実家は内藤新宿の女郎屋さんと云えるのかも知れません。…その関係で金之助の養家一家が休業中の妓楼伊豆橋に一時住む事になたのでしょうか?…実態は不明です! 
……話が飛びますが、作家山口瞳の実母も実は横須賀柏木田の女郎屋「藤松楼」の娘でした、頭が良くユニーク魅力的な母でしたが生存中は自分の出自を一切隠し通して亡くなっています(自伝小説「血族」)。 ……前回へ戻る… 
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《新宿界隈由縁の人々》
(6) ゴールデン街
(5) 内藤新宿宿場と芥川龍之介
(4) 内藤新宿宿場と夏目漱石
(3) 内藤新宿宿場の有名人
(2) 赤線青線街の成立
(1) 闇市バラック街備忘録