[地域][人物] 東京歴史人脈帳(4)−10  浅草界隈 永井荷風 その1

荷風フアンにとって浅草は彼の行動の始点であり終点で在った様に思われます。女性が人生の大きなテーマであった人に相応しい場所でもあり、時系列で浅草との繋がりを追って見ました。
既に18歳頃から浅草吉原(新吉原)遊郭に登楼、親友の第一高等学校生の井上唖々と吉原(北廓)通いをし、……断腸亭日乗荷風日記)昭和20年3月6日記載の述懐では……二十(はたち)のころより吉原通ひを覚へ通だの意気だのといふ事に浮身をやつすようになり、居続けの朝も午近く、女の半纏を借りて寝巻きの上に引掛け、われこそ天下一の色男と言はぬばかりの顔して京町二丁目裏の黒助湯といふに行きしこそ思返せばこれ洗湯に入りし初めなるべけれ。………
随筆「葡萄棚」大正7年8月……銘酒屋の私娼少女との出会い……
………今わが胸に浮出る葡萄棚の思いではかの浅間しき浅草にぞありける。二十歳の頃なりけり。どんよりと曇りて風もなく雨に間ならぬ秋の一日、浅草伝法院の裏手なる土塀に添える小道を通り過ぎんとして忽ちある銘酒屋の小娘に袂を引かれつ。……まだ肩揚げつけし浴衣の撫で肩ほっそりとして小ずくりなれば十四、五にも見えたり。 気の抜けし麦酒一杯のみて後、娘はやがてわれを誘ひ公園の人込みの中をば先に立ちて歩む。その行き先いずこと思えば今区役所の建てる通りの中ほどにて、町家の間に立ちたる小さき寺の門なりけり。
門のうちに入るまで娘は絶えず身のまわりに気をくばりていたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添いて手をとり、……娘は奥まりたる離れ座敷とも覚しき一間の障子、外より押し開きてずかずかと上にあがり破れし襖より夜のもの取出して煤けた畳の上に敷きのべたり。     あまりといえば事の意外なるにわれはこの精舎のいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠家とはなれるにや。  問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃出でんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出出て再び葡萄棚の蔭をすぐる時熟れる一総の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠のような声を立ててわが袖を捉え忽ちわが背に捩り攀ぢつ。片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の房を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻あまたに飛出る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。本堂の方に木魚叩く音いとも懶(ものう)し。……(区役所は現在の浅草公会堂)

その後社会に一躍注目される著作活動と慶應義塾大学文学部主任教授、その講義の受講生に佐藤春夫小泉信三久保田万太郎、松本泰、水上瀧太郎などがいます。三田文学主宰者などを経て非戦、反権力、軍国国家非協力などは、無関心を装い弾圧を逃避しました。昭和20年の東京大空襲で罹災、赤坂の偏奇館(自宅)を焼失、疎開して戦後を迎えております。東京に帰ってからは千葉県市川市近辺で奇遇生活、人生の終焉は市川八幡に自宅を新築後間もなく昭和34年(1959)4月30日、79歳で亡くなりました。……この地に関わる著作に「葛飾土産」「畦道」「にぎり飯」「羊羹」などがあります。 浅草との密着した生活は戦後の昭和23年頃から始まり荷風さんらしい正月から……
《摘録、断腸亭日乗岩波文庫よりの概要で追跡します。 
昭和23年一月初3。今日も晴れて暖なり。……街頭に新衣を着たる子供多く駄菓子屋の飴売れること夥し。羽子板紙鳶もよく売れるといふ。 これ市川にて見る戦後第四年新春の光景なり。三ケ日文士書估の来るなし。正午混堂より帰り春本「濡れズロ草紙」を草す。また老後の一興なり。
昭和23年一月9日。晴。暖。午下省線にて浅草駅に至り三ノ輪行電車にて菊屋橋より公園に入る。罹災後三年今日初めて東京の地を踏むなり。………
と浅草に引き寄せられて行きます。銀座など戦前勝手知ったる街など活発に探索に余念が無く、遂に吉原遊郭焼け跡にも歩を運びます…
2月22日。……浅草公園に至る。日曜日の雑踏殊に甚し。六区の諸劇場皆裸踊りの看板を掲げたり。……大鷲神社焼跡を過ぎて吉原遊郭に入る。仲の町に桜の若木を列植す。娼家は皆バラックにて………娼婦各三、四人路傍に立ちて通行人を呼止む。風俗良家の婦女の如く中に容貌頗好きものもあり。年齢概して若し。……
5月7日。晴。「東京朝日新聞」に余の旧作「襖の下張」を秘密に印行せしもの警視庁に拘留せられし記事出づ。………
戦前春本の定番的存在が「四畳半襖の下張」でしたが作者不明とされた発禁本でしたが、将に作者は噂の如き荷風さんだった事が日記(断腸亭日乗)から判明しました。上記の件は発禁春本の印行者は起訴されたのですが、警察官が来宅し原作者の荷風さんには原本稿確認の署名をもとめられています。…しかしこの件は、終わりの始まりで、雑誌「面白半分」編集長”野坂昭如”さんが昭和47年(1972)7月号に掲載したので「わいせつ文書販売」で社長佐藤嘉尚氏と野坂さんが起訴され下級審で有罪…社長15万円 野坂10万円の罰金が確定後、上告して最高裁裁判所で審議されます。特別弁護人丸谷才一を選任し証人として五木寛之井上ひさし吉行淳之介開高健有吉佐和子を指定し当時マスメディアを賑わせましたが、結果は、……残念! 上告棄却とつれない結果でした。裁判官と云うお役人の視界は過去が主体でせいぜい現今まで、至近の目の前は見えていないのでしょうか、……
では、物は序でと云いますから「四畳半襖の下張」のごく一部から御判断を御願いいたします。………以下 [Wikipediaの評価の一部から]…
…文体は江戸中期ごろの人情本滑稽本などに範をとったと思しき擬古文で記されており、同時期の文語体春本の多くが明治期の文章に倣っているのに比べて格段に流麗かつ古風であり、作者の素養の高さが知られる。
……また騎乗位での行為の後、男の体の上で素裸になっていることに気づいた女が「流石に心付いては余りの取乱しかた今更に恥かしく、顔かくさうにも隠すべきものなき有様、せん方なく男の上に乗つたまゝにて、顔をば男の肩に押当て、大きな溜息つくばかりなり」と感じるあたりは、女性特有の心理をこまかく描いて凡百の春本から一線を画すものであり、四畳半襖の下張事件裁判において、被告側証人であった吉行淳之介が「春本を書こうとして春本以上のものができてしまった」むねの評価をくだす所以ともなった。………

但し戦後の老後の一興と称する春本『濡れズロ草紙』についての評価はよく分かりません?……その後戦災からの浅草復興も始まり……
9月20日 陰。晩間微雨。午後浅草。仲見世追々復旧し佃煮塩漬などむかし見しもの次第に店頭に出るやうになれり。汁粉屋梅園も先月来開店せり。
11月23日 晴。午後浅草ロック座楽屋。
この後次第に浅草六区ストリップ劇場の楽屋訪問が始まります。…年が明け昭和24年になると……
1月20日 晴。暖。朝高梨氏來話。午後浅草に往く。ロック座にて余の小説「踊り子」を脚色し昨日より上演の由聞きたればなり。
1月23日 日曜日。晴。暖。凌霜子を待ちしが來らざれば午後浅草に往き常盤座及ロック座に小憩して六時頃にかへる。
”凌霜子”は誰か…相磯凌霜、鉄工場重役、戦前荷風さんと清元稽古場で知り合い荷風終焉までの知人?、種々面倒を見た人か!。数少ない荷風の真実を知る人と云われている。著書に「荷風余話」あり。
3月25日 ……十一時過大都劇場に至れば小川氏既にあり。「停電の夜」初日。幸いにして大入り満員の好況なり。二回目の演芸終りし時巌谷真一氏吉田瑛二氏観客席より楽屋に来るに会ふ。一同福島喫茶店に小憩し小川氏と共に省線にてかへる。午後七時なり。             
”停電の夜”とは荷風作脚色「停電の夜の出来事」の軽演劇で、元オペラ座支配人小川丈夫氏が演出して浅草大都劇場で上演された。この時代は劇場軽演劇がブームになります。  
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《東京歴史人脈帳》
(10) 皮革製造業の状況(3)高度技術の行方は
(9) 皮革製造業の状況(2) 近代化日本を支えた産業
(8) 現代皮革製造業の状況(1)
(7) 皮革産業と弾直樹、西村勝三
(6) 永井荷風 その3
(5) 永井荷風 その2
(4) 浅草界隈 永井荷風 その1
(3) 浅草界隈 水戸光圀
(2) 浅草界隈 ”武家”
(1) 武家