[人物][地域] 東京歴史人脈帳 浅草界隈(1)−10  ”武家”

前回は移住と云うテーマでした、未だ興味のある場所は多数残っておりますが「銚子」に入れ込み過ぎたので一休み、続きは気分転換後に続けます。……
さて、気分一新して江戸東京の地域と係わる人物を追って見ることにいたしました。先ず東京の象徴的な街”浅草”から始めますが当然、ブログやHP「江戸旧聞」の反芻的部分も多少在りますので悪しからず御願いいたします。……今回は浅草と関わりのある武将を調べてみました。……
先ずは順序として浅草と云えば三社祭りの三社権現社(浅草神社)のご祭神が第一番に来なくては始まりません。…観音様”浅草寺”が第二番目になります?…なぜか、日本の元号の始まりは大化元年(西暦645年)と云われます。 が更に古い西暦628年のお話が発端です。往時の浅草付近迄は海辺で隅田川と呼ばれた現在の利根川、荒川、入間川の合流した川が流れ込み魚や海藻を獲る人たちが住み付いていました。 その中に檜前浜成、武成の兄弟がいて漁のさなかに一寸八分の黄金の観音像を網にかけて持ち帰り、戸長の土師臣中和と道端に草葺きのお堂を造りお祀りしたと言われております。 尊い仏様の海中からのお出ましに努力した聖人としてこの庶民出身の三人組を祭神としてお祀りしたのが三社さまで三社権現とも呼ばれるようになりました。主神の三社様 土師真中知命 檜前浜成命 檜前武成命。……現存の社殿は慶安2年(1649年)徳川家光の建立されたもので、昭和36年に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されました。
……では観音様浅草寺とは…たまたま当地を訪れた僧”勝海”が大化元年(645)海中よりお姿を現した聖観音菩薩像を秘仏御本尊さまとして観音堂を建立されたのが金龍山浅草寺の始まりとされております。…勝海上人を開基者、慈覚大師円仁を中興開山者としております。…更に今日に至る浅草寺の隆盛は鎌倉時代にはいり将軍の帰依を得て寺の荘厳を増してゆき小田原北条氏の絶大な庇護を得、徳川家康公江戸入府により将軍家祈願所と定められて隆盛は定着永続化し現代に至っております。 …話しは浅草界隈と武将の繋がりに入ります。
源義家 延久2年(1070)武士の棟梁といわれる八幡太郎義家は朝廷の命を受けた父陸奥源頼義の奥州安倍氏征討に参戦の途次、浅草寺に詣で戦勝を祈願。……その出陣で隅田川を千住附近で渡河しますが、その折”熊野権現”を勧請、祈願したのが千住大橋そばにある熊野神社(南千住)、北千住側にも義家ゆかりの白旗八幡社が現存しております。
源頼朝鎌倉幕府初代将軍 源義家の子孫)……治承四年(1180)4月 頼朝は源氏再興を目指しますが、小田原石橋山の戦で破れ房州に逃れ、下総で再起した頼朝は房総武士団を糾合、9月市川国府台に結集し鎌倉を目指します。その数万の大軍は10月に隅田川の石浜付近を渡河し頼朝は「浅草寺」に立ち寄り平家追討の戦勝を祈願しています。……聖観世音菩薩功徳の甲斐あって弟義経などと共に平家を滅ぼした鎌倉幕府を開き征夷大将軍源頼朝ですが、些細な事柄から戦に長けた弟の義経離反を猜疑し追捕を始めますが義経奥州藤原氏の三代目秀衡のもとに身を寄せ匿われます。この奥州藤原氏とは…源氏の祖八幡太郎源義家の奥州安倍氏征伐の前九年役、後三年役の同盟者清原氏の後裔で「清衡」は実父の藤原経清の姓を名乗る事で藤原清衡となり、奥州藤原氏初代清衡、二代基衡、三代秀衡、四代泰衡です。……が、三代秀衡死後を継いだ四代目藤原泰衡は天下の頼朝を畏怖しお家安泰を計り…義経を自害(文治5年4月 1189年)に追い込み首を鎌倉の頼朝に送り、唯々諾々を表します。しかし戦国戦乱を制覇した頼朝の目には奥州の覇者藤原氏の存在は好しとせず、奥州遠征の征伐で泰衡を殺し(家臣の造反殺害説あり)奥州藤原氏覇権の栄華は消えたのです。源義経が引き金役となった経緯は………義経の父源義朝は京で藤原信頼と組して平治元年(1160)、”平治の乱”を起こし敗れて四条河原で処刑に果てました。母静御前の再婚先公家の一条長成奥州藤原氏三代秀衡の妻女との血縁の関係を頼り元服後既に秀衡の許にいた経緯もあり、可なり濃厚な関係が義経と秀衡に存在した様子もあります。

……時は移り南北朝騒乱の主要人物足利尊氏と浅草へ…
足利尊氏(足利幕府初代将軍)▲新田義宗新田義貞三男)…親子兄弟と言えども争った南北朝戦乱の時代の象徴的事件として……尊氏の弟、足利直義と養子直冬(尊氏の実子)が南朝に走った骨肉の闘争は 早速、尊氏は直義を追討して捕らえ鎌倉に連れ込みましたが、直義は暫くして落命しますが、決着とはならず、……虎視眈々、亡き新田義貞の遺児義興、義宗、北条氏の残党が上野国に集結し尊氏討伐の大連合を組み鎌倉を目指し南下しました。迎え撃つ尊氏軍は金井原(東京都小金井市)、人見原(東京都府中市)に進出激突、合戦……ところが尊氏軍後衛の武将、石堂義房(降伏した元直義の家臣)が新田勢に内通謀反して戦陣が一挙に崩れ敗走する尊氏を望見した新田義宗は尊氏必殺を期して徹底追尾しすれば、尊氏は遂には隅田河畔浅草石浜に追い詰められ背水の陣を敷きます。

人見原合戦場浅間山
追撃の新田義宗勢二百騎余りが石浜に追い着いた時は既に薄暮となり前に遊水、背後に隅田川を控えた要害に立て篭もる尊氏追討のチャンスは最早失い、逆に小勢の深追いは危うし長居は無用とばかり金井原に引き返します。
関東に発し西は九州まで駆け巡った戦国武将足利尊氏もこの度の合戦では自害寸前の事態を辛くも思い留まった大ピンチだったようです。……最大のピンチこそが逆転の大チャンスとは世の常か 再進撃した尊氏軍により制圧された新田一族壊滅のピリオドが打たれました。世に武蔵野合戦と呼ばれております。  
……先へつづく

《東京歴史人脈帳》
(10) 皮革製造業の状況(3)高度技術の行方は
(9) 皮革製造業の状況(2) 近代化日本を支えた産業
(8) 現代皮革製造業の状況(1)
(7) 皮革産業と弾直樹、西村勝三
(6) 永井荷風 その3
(5) 永井荷風 その2
(4) 浅草界隈 永井荷風 その1
(3) 浅草界隈 水戸光圀
(2) 浅草界隈 ”武家”
(1) 武家