[風俗] 遊郭 赤線 青線(10)−12 遊郭という街があった

今回はただのお話、ま、どうでも良い事の類です。暮れの忙しい盛りに暇つぶしか、性癖か、自分でも分からないのですが、取りとめもなく話しは行き来しますので悪しからずお願い致します。……昭和20年以前に遊郭で遊んだことのあるお方はかれこれ年齢にいたしまして現在87歳以上の高齢者になるでしょう。このお歳の方ですと昭和3年(1928)生まれですから当時18歳くらいになります。…文豪永井荷風さんは若き頃の述懐では18歳で吉原遊郭に登楼、居続けで女の半纏を羽織り色男を気取って銭湯の昼湯に通ったりの遊びをしています。……
無条件降伏で日本が変わった日、昭和20年8月15日から日本で一番偉い人になったアメリカ占領軍マッカーサー司令官の命令は農地解放、財閥解体、男女同権など、女性解放の一環として遊郭(公娼)廃止命令により遊郭の灯は消えた筈でした。 が、すっとこどっこい、遊郭楼主達は旧遊郭を私娼街として復活させ、新売春街が出来上がります。この店に対して警察からは特殊飲食店という営業許可証が出されており遊郭楼主と警察の苦肉の合作で公娼制度の後釜が出来上がったのでしょう。この遊郭跡の私娼街を警察署内では地図上に赤線で囲み表示したのが何時の間にか世間でも赤線と呼ばれる様になったのです。警察は更に特殊飲食店の名称に合わせる為か、店舗モデルを設定し洋式ドアー、回転窓、外観にタイルを採用し内部に洋酒ビンを並べたカウンターとホールなど一見飲食店風赤線スタンダードのモデル店舗が完成しました。 なお、マッカーサー命令とその後の新憲法下の法律では売春禁止の条例は無かったのです………

photoー青線「花園」跡のゴールデン街

物はついでに青線の成立も追跡いたしましょう。…新宿で有名な場所として区役所傍にあるゴールデン街は過って作家やジャーナリストなど文化人の溜り場として有名、今でも昔の建物が雑然と残る飲み屋街ですが外人観光客まで来るスポットです。ここが「花園」と呼ばれる東京屈指の青線だったのですが、昭和32年(1957年)売春禁止法執行で青線の灯が消えます。元を正せばこの地は新宿花園神社に隣接し都電線路に接した辺鄙な空き地でしたが、戦後、新宿駅脇の戦時強制疎開跡公共地を不法占拠した尾津組や和田組が当時の高野フルーツパーラー脇から武蔵野館(映画館)にかけて闇市や飲食店を経営しておりましたが進駐軍命令の鉄槌がくだり移転したのが都電線路脇の花園でした。ここに発生した飲み屋街が何時の間にか酒は出さず、御婦人特有…ある種のお道具の賃貸業として私娼街が自然発生しました。この様な経緯で自然に構成された私娼街は赤線と区別し警察署の地図上で青線で囲み表示し、これが一般的な呼称に転化したものです。
註)…進駐軍命令→違反者はMP(Military police)が逮捕、軍事裁判後、沖縄送りで重労働を課せられる。…アウトローも恐れた。

ま、現在は戦後派が主体の社会構成ですからお江戸以来の遊郭は後回しに致しまして赤線、青線を先にいたします。 

かく云う私も敗戦時昭和20年は旧制中学一年生ですから遊郭には、ちょっと早すぎ無理でして、もし悪所通いを覚えたとしても戦後の私娼街赤線,青線の類になるでしょう。この戦後のお話になれば、俄然戦中戦後派の著名文士の作品で赤線、青線とは、どんな情緒で、どの様な事をしていたのか名文の力で想像できると思います。……「野坂昭如 線路渡れば夢うつつ」、「吉行淳之介 無作法のすすめ」、「五木寛之 風に吹かれて」など如何でしょうか。……                     
では青線新宿”花園”の活写は「線路渡れば夢うつつ」 野坂昭如著から…
昭和二十年代の後半、新宿でずい分女をかったように思うのだが、さて考えてみると、三人の娼婦しか記憶に残っていない。 一人は通称「二丁目」といっていた赤線地帯の、「レダ」なる店にいたサチコ、一人は花園神社裏の、青線の女で「いさみ」のノブエ、同じ一画のヨシコ。 夜逃げをくりかえして、転々としていたが、なんとなく新宿こそわが町といった感じで入りびたり、金があってもなくても、とりあえず悪所ひとまわりしなければ、気持ちが落着かぬ。高校(註…旧制高校)の頃、すでに遊郭に足を踏み入れ、同輩の中ではなれている方だが、初めて東京で登楼したのが、何時どこであったかまるで覚えていない。……
「いさみ」は右から二本目の通りにあった、女は常に二人しかいなくて、ノブエさんは、ここの主みたいな感じで、相棒はよく入替わったが、二十七年秋までいた。怒り肩で腰が張り、肉(しし)おきは堅く、何度も客になりながら、はたして歳がいくつくらいだったのか、当時、あまり気にしていなかったらしい。なんとなく海女出身のように思い、なぜ通ったかといえば、ただ肌馴染みというか、べつに同じシマで箒をしてもさしつかえなく、他の花にうつろうこともよくあったが、彼女のかたわらに身を横たえている時、いちばん落着けたのだ。…ぼくは美人が苦手だった、どうも甘ったれているところがあり、なにより気楽さが第一、そしてこれも差別意識だろうが、醜女の方がわが望みかなえてくださると、決めこんでいた。
四畳半襖の下張」の主人公は、初めて枕かわす芸者を、ひとつとりはずさせみせんとて、さまざまに手管をふるう。早番に御用済ませようとする女との、壮烈な肉弾戦を展開するのだが、ぼくなども、誰に教えられていたわけでもないが、娼婦を征服することが遊客の勤めと信じこんでいた。
つまり時間を長くかけるわけで、あるいは一分当たりの揚げ代を安くしようという下心だったかも知れないが、とっとと終えりゃいいものを、なにかこう逆に買われている如く、教育勅語脳裏に浮かべたり、麻雀の点数は切り上げになっていなかったから、三十八の五飜はなど暗算して敵娼の鼻息あらげるまで、持たしたものだ。床の上手下手、また、天井という面についても、まったく気にとめなかった。ノブエさんはショートであっても、客のズボンを敷布団の下に置き「私、寝押しがうまいの、うっかりすると筋が二本になっちゃうでしょう」という。勘ぐれば、乱暴にふるまうと、ズボンに妙なシワがつくという牽制だったのかも知れない。果てれば即ち彼女は階下の手洗いにおもむく、急に嫖客の足音がかしましく、娼婦の呼び込みが耳にはいる、お定まりの裸電球、水差しも灰皿もない。ふたたびノブエさんがあらわれる。こっちが身を起す、とたんに手品のように、彼女はズボンを引き出し、ぼくの身ずくろいする間に、シーツをのばし、枕を叩いて形をつけ、犯行現場を立ち去る殺人者の如く、眼をきかせ、急な階段危ないからと、必ず先に立つ。………

この学生、労働者、誰でもが思いを込めて集まり行為をした街が奇しくも? ゴールデン街と改称した事を知り、男のその行為をモジッタよく出来た名前と感心した覚えがあります。
 ……先へつづく… ……前へ戻る

遊郭 赤線 青線》
(12) 元吉原遊郭 遊郭という街が出来た
(11) 遊廓という街があった-2
(10) 遊郭という街があった-1
(9) 吉原遊女 投げこみ寺、淨閑寺昨今
(8) 吉原遊郭 裏方従業員
(7) 現代吉原遊郭変遷 ソープ街を歩く
(6) 玉の井案内 向島と濹東綺譚
(5) 玉の井案内 私娼街の魅力 山本嘉次郎さんとエノケン
(4) 玉の井案内 夢か現か(うつつか)幻か。
(3) 現代異端ストリートガール(街娼)考
(2) 著名文士と青線、遊郭の女達-2
(1) 著名文士が接した赤線の女達-1