[風俗] 遊郭 赤線 青線(4)−12 玉の井案内 夢か現か(うつつか)幻か。

小説濹東綺譚を読んで、ふらふらと玉の井の街に引き寄せられた私ですが、昭和20年の空襲で戦火に焼かれ、現在の街は迷路の小路に建て込んだ只の住宅街です。それでも歩き回るのは町の輪郭と路地など昔のまま残り、脳裡に仕舞い込まれた小説のイメージを追い求める楽しみが残されているのです。が、率直に云えば今でも下町の場末の風情を色濃く残したランブラーにとって嬉しい場所でもあります。
しかし、この町出身で「寺島町奇譚」や「昭和夢草紙」の著者漫画家”滝田ゆう”さんは【…電信柱一つにしても、かっての温もりはない。いわば、俗に言われるところの究極の玉の井界隈をひとり郷愁としようにも、かの”ふるさと”はあまりにも自分から離れ過ぎてしまった。…】と述懐しております。……
上)昔のランドマーク啓運閣と寄席玉の井館跡(戦後、玉の井文映)左)大正通り(現、玉の井いろは通り)右)「抜けられます」の路地
     
            


さて、と昭和を代表する小説は?、如何でしょうか、私は永井荷風さんの濹東綺譚を一番に挙げます。 読書家でもない者の、只の好みかも知れませんが、しかし、多くの評論家さんの話からも、堅く信じ込んでおります。…
荷風さんと云えば随筆”日和下駄”は東京散歩のバイブルに例えられる本でありますが、濹東綺譚文中でも……小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中の人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屡(しばしば)人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤に陥ったこともあつた。……と述べ、有名な荷風日記「断腸亭日乗」にも玉の井を歩き廻り詳細な地図を残し、”玉の井見物の記"を付記して、街を完全に掌握しております。
昭和11年(1936)5月16日 「断腸亭日乗岩波文庫より。
5月16日。曇りて風甚だ冷なり。晡時(ほじ)佐藤春夫氏来る。三笠書房出版「荷風読本」のことにつきてなり。夜銀座に往き不二あいすにはんす。帰途また雨。
玉の井見物の記
初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり。その時には道不案内にてどの辺が一部やら二部やら方角更にわからざりしが、先月来しばしば散歩し備忘のため畧図をつくり置きたり。路地内の小家は内に入りて見れば、外にて見るよりは案外清潔なり。場末の小待合と同じくらいの汚さなり。西洋寝台を置きたる家尠からず、二階へ水道を引きたる家もあり。また浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴するといふ。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、一寸(ちょん)の間は壱円より弐円までなり。
路地口におでん屋多くあり。 ここに立ち寄り話を聞けば、どの家の何という女はサービスがよいかとかわるいとかといふことを知るに便なり。 七丁目四十八番地高橋方まり子といふは生まれつき淫乱にて若いお客は驚いて逃げ出すなり。 七丁目七十三番地田中方ゆかりといふは先月亀戸より住替えに来りし女にて、尺八専門なり。 七丁目五七番地千里方千恵子といふは泣く評判あり。曲取の名人なり。 七丁目五十四番地工藤方妙子は芸者風の美人にて部屋に鏡を二枚かけ置き、覗かせる仕掛をなす。但し覗き料弐円の由。 警察にて検梅(けんばい)をなす日取りは、月曜日が一部。火曜日が二部。水曜日が三部という順序なり。
検梅所は玉の井市場側昭和病院にて行う。入院患者大抵百人以上あり入院料一日一円なり。 女は抱えといはず出方さんという。 東北の生れの者多し。 前借は三年にて千円が通り相場なり。 半年位の短期にて二、三百円の女も多し。 この土地にて店を出すには組合に加入金千円を収め権利を買うなり。 されど一時にまとまりたる大金を出して権利を買うよりも、毎日金参円ヅツを家主または権利所有の名義人に収めた方が得策なり。 寝台その他一切の雑作付にて家賃の代わりに毎日参円ヅツを収るなり。その他聞くところ多ければ畧して記さず。<欄外朱書> 毎日金参円ヅツ出すといふは家一軒の事に非ず自前でかせぐ女が張店の窓一つを借る場合の事なり家の主人に毎日金参円ヅツ渡し前借はせず自由にかせぐ事を得る規約ありという。

荷風さんは濹東綺譚のお雪のモデルにしたお気に入りの娼妓を見付け、ちょくちょく通って観察し、小説を書き上げた様子が日記「断腸亭日乗」から読み取る事ができます。…… 
昭和11年(1936)9月初七。「断腸亭日乗
……今年三、四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中にふと一軒憩(やす)むに便宜なる家を見出し得たり。その家には女一人いるのみにて抱主らしきものの姿もみえず、下婢も初の頃にはいたりしが一人二人と出代りして今は誰もいず。 女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。 年は二十四、五。 上州辺りの訛りあれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌(きりょう)、こんな処でかせがずともと思はるるほどなり。 あまり執(しゅう)ねく祝儀をねだらず万事鷹揚なところあれば、大籬(おおまがき)のおいらんなりしといふもまんざら虚言(うそ)にてはあらざるべし。 余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪ふ時には必ず雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携え行くなり。……
昭和11年(1936)10月5日。「断腸亭日乗
庭の萩まだ散らず昼の中より虫の声盛んなり。小説の稿漸(ようや)く進む。夕餉して後銀座にて買物をなし玉の井に立寄りてかへる。夜気冷かになりて炎暑の夜の如き勇気も今は消磨したれば、この女の家を訪ふも今宵をかぎりにせむかなど思ひ煩ふこと頻りなり。燈下また執筆一時過寝に就く。
と云う遊里玉の井の実際は厳しく冷酷な生業(なりわい)を強いられる女達の街でしたが、荷風さんはここを叙情溢れる作品へと昇華した事が解かります。
その昔この私娼街は特別の風情があったのでしょうか、その魅力か魔力か? 訪れた方々に永井荷風高見順田村隆一尾崎士郎太宰治徳田秋声室生犀星高村光太郎北原白秋舟橋聖一黒澤明谷口千吉山本嘉次郎滝田ゆう(街の住民)など一寸とチェックしても多士済々です。
先頃まで玉の井の地名は東武電車の玉の井駅(現、東向島)など知られ更には荷風さんの作品を通うしてこの地の私娼街をイメージさせるまでに成っておりますが、実際には地図上の町名は見当たらず昔は寺島町であり昨今は東向島です。 その理由は次回にして、物語の発端……いきなり後方(うしろ)から「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真っ白な首を突込んだ女がある。油の匂いで結ったばかりと知られる大きな潰島田には長目に切った銀糸をかけている。わたくしは今方通りがかりに硝子戸を明け放した女髪結の店のあった事を思出した。
吹き荒れる風と雨とに、結立の髷にかけた銀糸の乱れるのが、いたいたしく見えたので、わたくしは傘をさし出して、「おれは洋服だからかまわない。」実は店つづきの明るい燈火に、さすがのわたくしも相合傘には少し恐縮したのである。「じゃ、よくって。すぐ、そこ」と女は傘の柄につかまり、片手に浴衣の裾を思うさままくり上げた。……物語を地図上で追ってゆきます。……先へつづく… ……前へ戻る

遊郭 赤線 青線》
(12) 元吉原遊郭 遊郭という街が出来た
(11) 遊廓という街があった-2
(10) 遊郭という街があった-1
(9) 吉原遊女 投げこみ寺、淨閑寺昨今
(8) 吉原遊郭 裏方従業員
(7) 現代吉原遊郭変遷 ソープ街を歩く
(6) 玉の井案内 向島と濹東綺譚
(5) 玉の井案内 私娼街の魅力 山本嘉次郎さんとエノケン
(4) 玉の井案内 夢か現か(うつつか)幻か。
(3) 現代異端ストリートガール(街娼)考
(2) 著名文士と青線、遊郭の女達-2
(1) 著名文士が接した赤線の女達-1