[将軍家][寺社] 小江戸川越(2)−2 徳川三代《家康、秀忠、家光》と川越喜多院

明治維新戊辰戦争のおり、お江戸では彰義隊上野戦争が勃発、東叡山寛永寺の堂塔伽藍は戦火で焼失します。 広大な跡地は名勝上野公園となり、東京屈指の文化ゾーンとなりました。
現在も公園内には川越喜多院天海僧上の寛永寺開山両大師堂と天海僧正遺髪塔があり、徳川将軍家との強い絆を伝えております。
江戸幕府の開祖徳川家康が天海に帰依し絶大な敬意と信用が強い礎となり初代家康、二代秀忠、三代家光に仕え、側近として黒衣の宰相とさえ云われる存在でした。
徳川家康の側近としては当然武家の重要人物が居たわけですが、僧としては、南光坊天海と金地院崇伝の二人がおり、僧侶が当時学識に秀でいた存在かが分るのです。 本来、両雄並び立たずとされますが、そこは家康の智謀と奥深い懐が適所適材に起用していました。武断、政治の智恵は金地院崇伝に任せ、即ち徳川300年の根幹法度、禁中並公家法度と武家諸法度の二大法典の起草を任せ、…将軍家の将来像と不離不測の関係にある神仏宗教に係わる事は天海が見えてまいります。
     


上)喜多院境内 下)見世蔵の街並み
天海僧正の手掛けた主な行跡を追跡してみますと、先ず一番は徳川家康公の終焉期の対処として東照大権現の神格実現と、社挌を伊勢神宮と同列の東照宮として家康を祀った事に尽きます。家康の遺言の実践…遺骸を久能山に葬り、一年後には日光山に改葬し、幕府、江戸関東の鎮守にならん。…事を、まさに家康の意志に忠実に自ら鋤鍬を手に久能山の家康神柩を金輿に移し移送を実践した事でしょう。
その他考えてみますと、徳川将軍の菩提寺上野の東叡山寛永寺創建がありますし、織田信長の焼き討ち以来の比叡山延暦寺の再興、川越仏蔵院北院を喜多院と改め、川越大火も乗り越え寺を隆盛させます。 また紫衣事件に拘って流刑の沢庵和尚などの赦免の実現なども数えられるでしょう。……
それでは川越市喜多院を参詣します。…
JR埼京線または東武東上線川越駅に下車して東武東上線コンコースに川越市観光案内所があります。ここで市観光課編集の川越案内パンフレット(題名、小江戸川越見る遊ぶマップ入り)を必ず貰ってください。
これは大きな地図で観光に必要な情報を網羅してあり誰でもが目的地に行かれる様に出来た優れものです。また詳しく説明してくれる職員も居ります。
《アクセス方法》 <1>歩く、<2>小江戸巡回バス、<3>川越シャトル、<4>東武バスフリー乗車等ご自分で考え出発です。
喜多院の境内には数々の由緒ある建物が散在し、先ず目に入るのが入母屋造りの大本堂(慈恵堂)で寛永十六年(1639年)の建物です、参拝は”慌てないで大丈夫”、後で解かります。本堂右手の渡り廊下の先が庫裏で『拝観者の受付』拝観料支払い所があります。
喜多院の由緒をデータで調べて見ますと、その開山も定かでないほどの古刹で天長七年(830年)頃からの歴史は伝えられておりますが、ここでは徳川家康公との縁以後からに致しす。……
家康は江戸入府以来、天海僧正に帰依しその導きに絶大な信頼を寄せ深い絆で結ばれておりましたが、家康没後の寛永十五年(1638年)の川越大火により天海僧正喜多院も堂塔伽藍をことごとく焼失します。
時の三代将軍家光は直ちに江戸城内紅葉山の御殿を解体、舟で新河岸川を利用し川越喜多院に運び寺の庫裏、客殿、書院、など主要な建物を再建復興させ、現代に至りました。
     
喜多院客殿(江戸城大奥御殿)
それでは拝観入口で順序に従い庫裏からは渡り廊下で本堂内陣へと入りますと、いつも外で眺めていた景観とは大違い!、内側の様子はいとも荘重に感じられてここからの参拝は格別の感動がありました。 さらに渡り廊下を戻り、客殿は最早、江戸城大奥の建物です。 各間取りを進むと奥の間の手前の部屋には阿弥陀如来の仏像などが安置されて須彌壇になっております。
その隣奥の十二畳半の部屋が、お江与の方崇現院の家光誕生の間といわれ、上段の間が設けられ襖絵には山水の大和絵、天井の格子には牡丹など四季の花が描かれる華麗の中にも四百年を遡る年月が醸し出す独特の気配が満ちております。
ここでしばし座して稀有な雰囲気を肌で直に感じることが出来満足でした。徳川家康征夷大将軍に任じられた翌慶長九年(1604年)に秀忠(のち二代将軍)の子、家光の誕生ですから唯一最古の江戸城の御殿が継承保存されている事になります。
更に回廊を回ると湯殿、厠があり書院への廊下伝いには見事な庭園が展開しております。
この書院の奥の一間が、かの春日の局化粧の間と伝えられ、八畳間ほどの座敷に成っており一見普通の部屋のようですが何か開放感が感じられません天井が低いのです、隣の部屋をよく見ますと取り外しの出来る階段が屋根裏に通じて隠し部屋が仕組まれておりました。
何の為に作られたものでしょうか? という事でこの建物は、かの大奥の雰囲気を彷彿させております。 続いて部屋を廻り、庭を眺め、広い建物から庫裏に戻ります。参観した慈恵堂(本堂)客殿、書院、庫裏はすべて国宝か重要文化財です。
なお本堂内陣など主要な部屋の撮影は禁止されておりました。
その他広大な喜多院境内には、…
慈眼堂(天海僧正を祀る)正保二年(1645年)三代将軍家光の建立。
鐘楼門 寛永十年(1633年)建立、元東照宮の建物。
多宝塔 寛永十五年(1638年)建立。
五百羅漢」 天明二年(1782年)から五十年で完成。
仙波東照宮 寛永十六年(1639年)完成、拝殿、本殿、唐門、石鳥居、随身門、総てが国重文ですが、全く質素で残念ながら、日光、上野などの東照宮とは比較には成りません。
門前にある日枝神社喜多院に明治の神仏分離令までは属しており、東京赤坂の山王日枝神社日吉山王権現社)もここからの分祀されたもので、由緒ある神社です。 なお川越市は関東屈指の観光都市で市街に観光資源が溶け込み、江戸情緒の見世蔵の街並みは第一番!、多数の寺院や商家など訪ねるとリピーターに為ってしまうかも知れません。…
更に、川越城の本丸御殿の玄関と建物(現在大修理中)、、、、童謡 ″ここは何処の細道じゃ天神さまの……″の三芳神社、明治時代の日本橋の街並みを映す蔵、大正、昭和の駄菓子屋の集落 菓子屋横丁、など好みの観光スポットが多数在ります。 ……前へ戻る

小江戸川越》
(2) 徳川三代《家康、秀忠、家光》と川越喜多院
(1) 川越夜船