[寺社] 将軍家霊廟増上寺 (2)−5 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その2

三代将軍家光と大御所さま秀忠が京都二条城に上洛中の寛永3年9月15日お江与の方は江戸城西の丸で亡くなります。遺骸は9月18日増上寺におくられ、程近い麻布我善坊谷で盛大な荼毘に付し増上寺境内に巨大な宝篋印塔を建て胴中に遺骨は葬られました。…人の世は有為転変、遥か歴史の彼方に潰え去った徳川将軍家も昭和33年の増上寺将軍霊廟の改葬時、崇源院”江”の初代宝篋印塔は土中に埋もれ、その跡に主として徳川中期以後正室墓の様式となった、八角宝塔が建っておりました。
     

上)小石川伝通院境内宝篋印塔群、一番奥が家康公生母「於大の方」宝塔
下)崇源院お江与の方八角宝塔改葬時の状態
"photo" 増上寺徳川将軍墓とその遺品、遺体”(東京大学出版会

ここからが複雑な話になるのです!、恐らく天災などで崩壊した宝篋印塔の代替墓として建てられたものでしょうが、何と昭和33年改葬後の徳川将軍霊域ではこの崇源院八角宝塔が二代将軍秀忠の宝塔として祀られているのです!!……
なぜか?…東京プリンスパークタワーホテルの敷地に在った秀忠台徳院霊廟も東京空襲で鞘堂内に葬られていた秀忠宝塔も共に焼失します。徳川将軍家唯一の木造宝塔だったのです。
奇しくも、●二代将軍の木造宝塔、●正室崇源院お江与の方の荼毘葬、●天皇明正天皇)の外祖父母、●正室が世継ぎ将軍を出生、●側室の居ない将軍、などと”秀忠、お江与の方”カップルは徳川十五代将軍家の唯一の記録保持者なのです。ま、私には必然たる偶然に見えますが。……
     

"photo" 増上寺徳川将軍墓とその遺品、遺体”(東京大学出版会
(昭和33年増上寺将軍霊廟改葬時の二代将軍秀忠木造宝塔跡と鞘堂跡の状態、この敷地は現在の東京プリンスパークタワーホテルの本館です)
では”江”崇源院のお墓をお参りしたいが?…上記の通り崇源院八角宝塔は二代将軍秀忠の代用宝塔に転用されております!!…現在の増上寺徳川将軍霊域の入り口鋳抜門の一番手前の左側にある将軍正側室子女の合祀宝塔に”江”崇源院も入っているのです。この宝塔内は崇源院二代秀忠正室、天英院六代家宣正室、廣大院十一代家宣正室、天親院十三代家定正室、月光院お喜世の方、桂昌院お玉の方、その他側室、子女の墓を発掘し桐ヶ谷火葬場で荼毘に付し合葬したものです。
まさに将軍家大奥を彩った歴史上の人物の旧墳墓を十把一絡げの始末は、壮大な歴史遺構破壊が公然と行われた象徴と言えます。 
注1) この将軍正側室子女の合祀宝塔は六代家宣側室で「月光院お喜世の方」(七代家継生母)の旧宝塔を転用したものです。……
注2) 増上寺徳川将軍家霊域は毎年4月2日〜8日迄一般に公開されます。その他の参詣は銅の鋳抜門まで、それでも何とか!、拝みたい方は右側玉垣に沿って歩けば木陰の中に垣間見る事になるかも!……
それでは改葬発掘に立会った長谷章久氏の記述があります。
東京の中の江戸 長谷章久 角川選書
「死者たち」の証言……だが、それにも増して、遺体の調査時に驚くべき事件が発生した。それは家慶(12代)の宝塔から、遺体を納めた柩がかつぎ出されたときのことである。白日のもとで銅棺のうちに収められた木棺の蓋がはらわれた際、中の死骸は死の直後とほとんど変わらぬ様相だった。 といっても、遺体が人工的なミイラになっていたわけではない。当時非常に高価だった朱肉を腐敗防止のため死体の周囲にぎっしりつめてあったから保存がよかったのである。何十キロもの朱肉の重さで、死体は背中が押され、うっ伏し気味だった。 それを引き起こし染まった朱を落としてみると、顔の肌の色は昨日息を引き取った人のそれのよう。 おかげで瓜ざね顔で鼻の高い「大名顔」というべき高貴な面貌や、華奢な骨格まで観察にことを欠かなかったのである。
だが外気に触れて、ものの三十分もたったかと思われるころ、乾燥しだした皮膚はにわかに裂け目を生じ、鉋屑のようにくるくるとはがれだしたではないか。……
もっと完全な姿で再び日の目を見たのが六代家宣である。彼の死体は二重の銅棺に束帯姿で収まっていたのだが、なんら人手をわずらわさずに天然のミイラすなわち屍蝋(しろう)と化していた。…家宣は正徳二年(1712)五十一歳で没している。彼もまた典雅な美男型だった。……
寛永九年(1632)に死んだ二代将軍秀忠は、さすが父家康に従い戦場を往来した強者だけに、背丈こそさして高くないものの、いかにもがっしりした骨格だった。それは台徳院廟宝塔の地下2.7メートルの石室内に安置された肩輿の中の座棺から毛髪や爪とともに発見された彼の遺骨にもとずく推測である。副葬品に三つ葉葵の紋章のついた槍や火縄銃があったのも、時代をあらわしていて感興をもようす。同じ江戸時代でも、こうして将軍の体格や好みにどんどん変化が生じてきているからである。……

焼失したとは云え、この広大な増上寺将軍霊廟跡に残された重要文化財と正側室の宝塔や廟内の巨大灯篭などおびただしい遺構を粗大ゴミの如く土地購入者の意に総てが委ねられました。……私の見方はこの霊域売却者は更地化に伴なう残存文化財と膨大な巨大石材の始末を土地購入者に押し付け経済的な負担を逃れたと考えております。
……秀忠とお江与の方の重要文化財が辛くも埼玉県の狭山市不動寺に保存されている経緯と明治維新で上地された徳川将軍家に属する物のうち祖先を祀る廟墓の所有権が徳川宗家に返還された東京府の文書が存在いたします。詳しくは。……次へつづく…  ……前へ戻る
 
徳川将軍家霊廟増上寺》 
(5) 増上寺将軍霊廟宝塔の行方と清瀬市長命寺 
(4) 狭山不動寺の将軍家甕棺は何方のか 
(3) 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その3 
(2) 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その2 
(1) 江、秀忠墳墓の経緯と増上寺 その1