[幕末][歴史]  小伝馬町牢、小塚原刑場と市ケ谷因獄の実体

驚きました。先日小塚原延命院の首切り地蔵が蓮の台(うてな)を残し忽然と消滅した光景に出逢いました。実は東日本大震災で左腕が落下し倒壊の危険から解体修復工事を始めたのです。花崗岩27個を積み上げ寛保元年(1741)に建立された、このお地蔵様の慈悲深い柔和なお顔は江戸石工の傑作かと思います。

奥州街道日光街道水戸街道)に沿った小塚原刑場は南千住の隅田川貨物駅線路や地下鉄日比谷線常磐線つくばエキスプレスなど鉄道線路の要衝で旧刑場跡は名のみです。小塚原仕置場唯一の遺構がこの首切り地蔵尊ですが、現在の都営バス南千住車庫際貨物線路にあった旧位置から移動して現在は地下鉄南千住駅延命寺の境内です。現在の都営バス車庫附近から小塚原回向院にかけての街道筋が旧仕置き場の敷地になります。
延命寺から常磐線ガートを隔てた並びに小塚原回向院があります。このお寺は刑死者を供養する為に寛文7年(1667)に建立されたお堂が嚆矢とされますが、現在も、このお寺の境内には吉田松陰をはじめ多くの有名人、高橋おでん、鼠小僧次郎吉など小さな墓が多数あり、特に安政の大獄連座処刑された人達が目立ちます。



よく調べてみますと吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所であります。松蔭の門弟が密かに長州藩別邸に運び埋葬したのが世田谷区松蔭神社の松蔭墓地です。断罪受刑者の墓を立て供養を許さない厳しい法度”が存在したのでした。また女囚としても有名な高橋おでんの斬首は明治12年に行われましたが、すでに小塚原刑場は明治6年に廃止されており小伝馬町牢も明治8年廃止され市ケ谷因獄を創設しておりますから、市ケ谷での斬首とされ谷中墓地にも立派な墓が実在します。大体の経緯からも分りますが回向院境内の有名人の墓は刑場廃止後、供養に建てたもので刑場に係わり無いものもあるのです。但し遺骸取り捨て場の廃止年月は不明です。 
主として吉田松陰に因んで国粋主義の刑死者を顕彰する供養墓が集中して、桜田門で井伊大老暗殺者達の墓もあり、明治時代の思想風潮を反映した流行だったのでしょう。……と云うわけで有名人の墓とされるものは余り意味がありませんが、明治8年(1771)に杉田玄白らの刑死者腑分け立会いを記念した観臓記念碑は意義深いものがあり、解剖学オランダ書籍ターヘルアナトミアの精緻を実感し翻訳新書を出版することが出来たとされ、医学先進国日本の基礎が築かれた場所といえます。
日本国で斬首刑が廃止になった明治14年まで務めた首斬り浅右衛門こと山田朝右衛門八世の吉亮さんの述懐。明治百話(上)篠田鉱造岩波文庫に細かい記述があり、吉亮の父七世吉利は吉田松陰頼三樹三郎小伝馬町牢内で斬首しており、八世吉亮の処刑者は主に明治維新後の事件で紀尾井坂の新政府要人大久保利通を襲撃殺害した一統のうち島田一郎と長連豪の斬首、また紀尾井坂上の堀端で岩倉具視を襲撃した武市熊吉、武市喜久万、島田直高、下村義明、岩田正彦、山崎則雄、中村泰道、中西茂樹、沢田悦弥の九名を一度に斬った話がありました。女囚では高橋おでん、夜嵐おきぬなどの詳細も記しております。 すでに話の如く小伝馬町、小塚原の時代は終り舞台は市ケ谷因獄処刑場の話です。この場所に出入りした人物の聴き取り談があります。…横瀬夜雨著 ”太政官時代”
……西南の乱に興して五ヵ年の禁固を食らひ、市ケ谷に因へられ、室頭で三年過ごしたが、斬首の刑があると何時も見せてくれた。で私は前後二十八名の男女の斬られるのを見た。刑場は市ケ谷監療の裏手の鬱蒼たる杉林の中で方五十坪ばかり黒塀をめぐらした中が地獄の辻なのである。一方に絞罪臺が淋しく聳え立ち、其聳の下が當時の極刑たる打首場であった。日も射さぬ杉の森のしかも黒塀の中であるから凄惨の気人に迫る位である。罪なき者も一度此處へ入ると悚然として背に汗する。……
戻ります、また大森鈴が森のブログでご紹介致しましたが磔刑の執行役は弾左衛門配下の「矢の者」の指図で非人身分の者でしたが、斬首刑でも介錯縄取の人足は重要だったそうです。  
明治百話(上)篠田鉱造岩波文庫
……その時分の人足頭が五郎兵衛、小頭が角次郎、人足が仙吉、常吉定吉の三人、これらはなかなかの手練者でした。平常(ふだん)から心付もしてありますし、手前だと安心して、左右から押え、後ろから例の通り足の親指を握ってくれるので、まことに斬りいい。弟子達がよく切り損じをやるのは、第一危ないからで、罪人より介錯人が首をチョン斬られた日には事ですから、従って首を縮めて斬らせる、罪人も荒れるので顎へ斬付けたりしてしまうのです。……
一世一代の斬首……斬首で一番手古摺ったのは大川端町の代言人服部喜平治という男、これがどうして利かぬ気の奴で、この時はさすがの自分も血の雨を全身に浴びました。…「玉乃判事を殺さぬうちは服部喜平治は死なぬ、死刑の宣告を下した吉本判事も生かしておかぬぞッ」と大狂乱を始めました。さすがの縄取りも持余す、手前も刀を下ろす事が出来ない。…果ては手前にまで「斬ったら最後、化けて出て憑り殺す」というのです。仕方がないので、縄取りに「放してしまえ」と命じました。縄取りは怪訝な顔をしていましたが、手前のいうことなので「ようがすか、放しますぜ」と危ぶみながら喜平治を放した。手前はこうなっては覚悟がありますから、野放しにさせておいて、逃出すところを背後から峰打を一つ喰わしたんです。すると斬られたと思ったのか、振り返りさも飛付いて来ようとしたところをスパット斬りました。美事斬りは斬ったが、抗ってくるところを斬ったので死骸は手前の方へドット倒れてくる。返り血は絹紬の紋付へサッとかかってぐしょ濡れです。どっちが斬ったのか斬られたのか解らぬくらいでした。こんな首斬りをやったのは実に一世一代のことでした。……
気になった市ケ谷因獄の場所ですが永井荷風の父久一郎邸のあった牛込余丁町の近くです。荷風は父母弟(二人)と住んでいた処で、一室を”断腸亭”と命名の場所でもあります。ちょっと前まで靖国通りの曙橋下から牛込抜け弁天に通じる細くくねった道でしたが今は広大な改正道路になっており、監獄は大正4年(1915)廃止になりました。荷風さんが大逆事件幸徳秋水などの護送自動車、馬車?を目撃した文章を読んだ気がいたします。…

鈴が森刑場の磔刑はこちらから…
…《http://d.hatena.ne.jp/hakyubun/20110213/1297557163》…