[風俗] 遊郭 赤線 青線(9)−12 吉原遊女 投げこみ寺、淨閑寺昨今

新吉原遊郭の遊女の投げ込寺として有名な淨閑寺です。葬られた女性達の生涯は『生まれては苦界、死しては浄閑寺』と悼む心は現代にも語り継がれております。…
淨閑寺参詣で実在した歴史の一端に触れ、境内に眠る女性達には仏様の慈悲と救済をお願いするばかりでした。伝統的社会悪の被害者がいたいけない少女達であった事実に、今更ながら封建社会の過酷さに心が痛みます。
     
 
淨閑寺山門と新吉原総霊塔
淨閑寺は古い山門を残し現代的な建物に変わりましたが、往年お寺を訪ねた情緒を切々と書き残された永井荷風さんの随筆があります。 この寺の昔の佇まいと彼の心を虜にした境内の情景を読むと、ついお参りしたい気に為ったのです。…では投げ込み寺淨閑寺の概要、アクセスは地下鉄日比谷線三ノ輪駅が最寄で、荒川区南千住2丁目にあります。 徳川家康江戸入府後に日本橋人形町界隈に創られた吉原の遊里が幕府の命により浅草裏に移転して新吉原遊郭となりましたが、安政二年(1855年)の大地震による火災で多数の遊女が亡くなりました。
その始末に淨閑寺本堂裏に大穴を掘り、投げ込むように埋葬したのが謂われの始まりとされます。其の後も新吉原遊郭の遊女が病や心中など、悲しい生涯を終えた遺骸を葬るお寺でした。運び込まれる遺骸は着衣も剥がれた悲惨な菰(こも)巻き姿のものまで在ったと伝えられます。 埋葬数は約二万五千体を超えるとされるのです。 江戸以来唯一残る山門を潜ると正面に本堂、その手前から墓地に入ると墓石、卒塔婆が隙間なく並び本堂裏手に至れば灰色にくすんだ大きな石塔に新吉原総霊塔と刻んであります。台座の端には”生まれては苦界、死しては浄閑寺” と刻してあり、更に脇に目をやると格子のはまった小さな穿ちを透かして中には骨壷が積置かれている様子が見えます。しかしながら江戸時代の遊女達数万の遺骸は恐らく墓地の地中深くに今でも眠っているのでしょう。
総霊塔の前には文豪永井荷風の詩碑と筆塚が建立されて居ります。荷風没後、文壇の人々が記念に建てたもので、若き頃より荷風はこの寺を好み、しばしば訪れ作品にも書いた縁から、ここが最適地と判断したのです。…では寺へ愛着の記述。”里の今昔” 岩波文庫荷風随筆集より
……箕輪の無縁寺は日本堤の尽きようとする処から,右手に降りて、畠道を行くこと一、二丁の処にあつた浄閑寺をいうのである。明治三十一、二年の頃、私が掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てていた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引き取り手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目立つばかり。その他の石は皆小さく蔦かつらに蔽われていた。……
荷風日記”断腸亭日乗”昭和12年6月22日より
……今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪し時ほど心嬉しき事はなかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超るべからず、名は荷風散人墓の五字を以って足れリとすべし。……戦後市川在住時の”断腸亭日乗”にも頻繁に名の出る親しい友人”凌霜子”こと相磯凌霜氏との対談が残されており、自らの死後の手筈まで語っております。この話に私は江戸古典落語の情緒を感じましたが、もっとも荷風さんは若いころ六代目”朝寝坊むらく”に弟子入りした事もあります。
…余死するの時、浄閑寺に葬る手順。
……遺骸を差荷の駕籠に入れ、なるべく雨のショボ降る夕暮れ時、お伴は相磯氏只一人が冷飯草履をはき、尻っぱり姿で、ボンノクボまではねを上げて、トボトボ三輪の浄閑寺に送り込むという話である。……彼の残された記述、心情の係わりから境内の新吉原総霊塔の傍らに永井荷風の筆塚と詩碑が建てられた由縁です。現実は彼の意思に反して文化勲章受章者荷風雑司が谷の永井家墓地に葬られました。……
在りし日の境内と現実との乖離は世の常と諦めるしかありませんでした。……先へ続く…  
……前へ戻る

遊郭 赤線 青線》
(12) 元吉原遊郭 遊郭という街が出来た
(11) 遊廓という街があった-2
(10) 遊郭という街があった-1
(9) 吉原遊女 投げこみ寺、淨閑寺昨今
(8) 吉原遊郭 裏方従業員
(7) 現代吉原遊郭変遷 ソープ街を歩く
(6) 玉の井案内 向島と濹東綺譚
(5) 玉の井案内 私娼街の魅力 山本嘉次郎さんとエノケン
(4) 玉の井案内 夢か現か(うつつか)幻か。
(3) 現代異端ストリートガール(街娼)考
(2) 著名文士と青線、遊郭の女達-2
(1) 著名文士が接した赤線の女達-1