[事件事故] 明治と維新の時代(4)−6 脆弱な歴史観《孝明天皇急死事件》

昔からの諺”勝てば官軍負ければ賊軍”などとよく使われた言葉ですが、尊王を掲げ勝利した薩長土肥と公家の連合軍の最大の目的、王政復古の根源を問われる事件が起っていたのです。
徳川幕府の末期、幕末時代の天皇孝明天皇ですが、尊皇攘夷の風潮の時代とは云え、天皇としての歴史的権威の自覚から複権意識の行使で存在感は絶大でした。 しかし解明されない空白が歴史上に残されています。…慶応2年(1866)36歳の孝明天皇急死事件です。 その死に様は尋常ではなく疱瘡(ほうそう、天然痘)を発病し快癒直前に御体の御九穴より御出血し悶絶死されたと御典医など立ち会った人達の記述が残ります。 突然の悶絶死の状況は毒物砒素の中毒症状として毒殺説が蔓延いたしました。

太政大臣 岩倉具視
まづ、面倒の無いように疑惑事件の要点ですが。……
明治の元勲岩倉具視が主人公です。この人物の謀略による孝明天皇毒殺事件が歴史のターニングポイントとして王政復古の大号令に発展したとされる疑惑、謎の一件の経緯を追跡してみます。……
江戸時代のお公家さん達は徳川幕府の『禁中並公家法度』の規制下、親王家、摂家清華家など上位の公家といえども武家覇権以後は凋落し、有名無実な肩書きに甘んじておりましたが、幕末には動乱をすばやく察知すると世情と同じく尊攘、佐幕など思惑して離合集散、下克上の時代に入ります。
明治維新幕末、岩倉具視と云えば下級公家出身者の立身出世として有名ですが、この時期尊皇攘夷の意識の高まりから朝廷の統治複権の動きが加速し、虚飾の上位公家の無能が曝され、下級実力者の献策上申などが盛んになると、朝廷内は下克上の様相を呈し、位階を超え有能実力者は天皇近くに列する様になりました。
このパタンの代表的な人物が岩倉具視です。 ここから彼の優れた思考行動力と稀有な謀議体質から波乱を起こします。
彼の実力者としての大功績から始めます。……桜田門で井伊大老を失った江戸幕府はもはや一縷の望みの公武合体へと舵をきり、孝明天皇の異母妹、和宮の降嫁を帝に願い、からくも14代将軍家茂と縁組が成立しました。 江戸に下る和宮の降嫁行列の随行勅使の一員として抜擢されたのが岩倉具視です、驚愕の成果を朝廷にもたらしたのです。
下級公家出身の岩倉は徳川幕府首脳老中との会談など本来許される筈の無い身分ですが、こと天皇の勅使の彼は強力な弁舌、交渉力で老中を捻じ伏せ、なんと前代未聞、将軍徳川家茂に自筆の誓書を書かせ朝廷への隷属を確認させます。幕府法制下にあった天皇の立場は優位に逆転しました。
孝明帝は賞賛し更に岩倉の朝廷内での実勢は高まり、幕府とのコネクター役は不動のものになります。
が”好事魔多し”尊攘派から佐幕派に転進した彼の立場はピークだったのです。……離合集散する公家の態勢に変化の兆しが! 
朝廷内で復権した長州藩尊攘急進派公家集団三条実美らは、幕府と通じる奸物として佐幕派岩倉具視、千種有文ら4人と岩倉の実妹堀河紀子(後宮典侍)と典侍高野房子を京都から追放、蟄居させます。 世に云う「四奸二嬪(しかんにひん)」の追放事件です。岩倉は更なる危機を直感し身を晦まし寒村岩倉村(現、京都市左京区岩倉、知行地ではない)に隠棲します。
……なぜ朝廷に功労した岩倉の追放を孝明天皇が許したのか?、疑点は徐々に凝縮されてゆきます。!!
蛤御門の変”……孝明天皇は殊の外、将軍家茂の後見役一ツ橋慶喜(15代将軍徳川慶喜禁裏御守衛総督会津藩松平容保に胸襟を開き絶大な信頼を寄せていたのです。 多分帝は朝廷の政治能力(公家)の不在を熟知し、統治は天皇、政治は幕府と公武一体(佐幕)の思想を目指していたのでしょう。
過激尊攘派長州藩は遂に痺れを切らし、天皇を手中に置く目論見から 京都蛤御門へ攻め込みますが、結果は御存知の通りです。
……天皇を神とあがめ臣事する思想の尊攘派に”孝明天皇が邪魔な存在”と云う重大な矛盾が惹起したのです。 これから核心に入ります。…
激怒した孝明天皇は幕府(禁裏守衛総督一ツ橋慶喜)を召し、長州を「すみやかに誅伐せよ」の勅を自らの言葉で伝えているのです。 なんと尊王派長州は、朝敵だったのです。
孝明天皇の自覚意識は思いのほか高く、一挙に朝廷内から長州派公家集団の一斉追放となります。 三条実美ら7人の”長州七卿落ち”です。  ここで問題があります。 三条実美から追放されていた佐幕派公家ら「四奸二嬪(しかんにひん)」は当然復権となる筈ですが、岩倉具視復権天皇に無視されました。
なぜか?孝明天皇の岩倉に対する心証は既に数々の行動から、疑念を抱いていたのかも?彼の常套手法、謀略の常習は廷臣八十八卿列参事件、将軍誓書取得、献策建白書の乱発、など平然と朝廷秩序を無視する、謀議徒党する下克上の体質が露呈しているのです。 特に蟄居中に、薩長尊攘派と頻繁に連絡し書簡、意見書など多発し得意とする権謀術策を披露し動乱の知恵者、演出者を自負していたのです。
岩倉具視の変節は、尊攘派佐幕派尊攘派(薩摩に接近)と目まぐるしく変化しました。
遂に”上手の手から水が漏れる”。 さらに、蟄居中の岩倉具視は策に溺れます。 孝明天皇の危惧していた謀議徒党する行動パタンが遂に天皇に向けられました。
隠棲の地で、尊攘派と濃厚に接触していた”乾坤一擲”の策謀は早速実行されます。  彼の得意とする列参を再び画策、慶応2年(1866)8月、岩倉具視の指導に従った…、子息岩倉具経、養子岩倉具綱、実姉の嫁ぎ先中御門経之、大原重徳など尊攘派公家22名が京都御所に列参し、孝明天皇の執権に抗議する箇条書(追放公家復帰を含む)を提出して朝廷公卿を威嚇します。
天皇側近の中川宮朝彦親王、関白二条斉敬は凶行に怯え?、自ら強引に辞職してしまうのです。
対応する孝明天皇は抗議事項の総てを拒絶、さらに激怒して列参尊攘派公家達22名は閉門を申し渡し追放されます。”廷臣22卿列参事件”です。
天下の情勢は孝明天皇の意志”公武一体”を目指す佐幕派が、なんと「尊王」の立場に逆転した捩れ現象になります。 
幕府から覇権奪取を夢見る尊攘派にとっては孝明天皇はもはや邪魔な存在でしかありません。 一変した尊攘派天皇の逆賊と化したのでしょうか。…
一方岩倉具視は公卿復帰の一縷の望みも断ちきれました。 時に孝明天皇は35歳、岩倉40歳、帝より岩倉は5歳も年長なのです。 
公家の身に天皇は唯一絶対の存在であり、孝明天皇の叡慮にすがる以外は無い筈ですが。………だが、人生を野心野望に身を焦がし暗躍して来た岩倉具視の心を過ぎった一瞬の閃きは!!、公卿中山忠能の娘、女官典侍中山慶子が生した孝明天皇の御子”祐宮(さちのみや、明治天皇)”13歳が関白中山忠能家に預けられております。 策謀家の目には天皇が二人存在すると映ったかも知れません。…
孝明天皇急死の状況、死因と公家岩倉具視の疑惑は次回です。……次へつづく…  ……前へ戻る

《明治と維新の時代》
(6) 近藤勇終焉板橋宿始末
(5) 疑惑の女官達(孝明天皇急死事件)
(4) 脆弱な歴史観《孝明天皇急死事件》
(3) 薩長新政府の文化破壊
(2) お仕置き御用という仕事 浅草弾左衛門
(1) 浅草弾左衛門