[将軍家] 崇源院お江与の方 (6)−7 軌跡の接点 母娘お江与と千姫

東京小石川の伝通院境内、…古びた石柵の奥深くに聳え立つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)は将軍秀忠、お江与の方の長女”千姫”の墓所です。
このお寺の境内、徳川将軍家霊域には徳川家康、生母”於大の方”の墓や、三代家光正室、その他将軍家子女の石塔が乱立し、あたかも歴史の真只中にタイムスリップした感覚にさえ為れる東京屈指、歴史の霊域です。
さて本題、「軌跡の接点」とは!  戦国の浅井三姉妹、茶々、初、江といえば落城壊滅の戦火をくぐり救出される奇跡を再度遭遇した話しは有名ですが、戦国時代の悲惨な象徴は親子兄弟といえども敵味方に対峙殺戮の渦に巻き込まれて行きます。
豊臣秀吉亡きあと、家臣の覇権争いは遂に徳川家康の下克上となり、主家豊臣家との大阪夏の陣では、落城する大阪城豊臣秀頼淀殿(茶々)母子は自害して果てました。
この時またまた奇跡が、…落城の修羅場から秀頼の室”千姫”が救出されるのです。祖父家康の命によるといわれますが…余りにもお江与と相似た、星の下に千姫の命があったのでしょうか!
ではお江与の方の長女千姫の辿った生涯を調べてみます。1597年(慶長2)出生ですから、家康が江戸入府7年後に嫡男秀忠の長女として伏見城徳川館で生まれた事になります。
一方秀吉は側室淀殿(茶々)には既に実子秀頼の出生があり、嗣子として育ち、慶長8年10歳の時、千姫7歳が嫁して行きます。?
また、このカップルは茶々と江の子供ですから、従兄妹(いとこ)の関係、更には、あっと驚く幼児の婚姻ですが歴史の真実は必然の結果です。…反逆、裏切り、下克上、内通、捏造、様子見なんでもありの戦国の世の事、婚姻関係、親子兄弟を相手に預ける人質などは、臣事、同盟、中立など誓言の証しとして日常行為だったのでしょう。
遂に戦国覇権トーナメント戦の掟は豊臣家、徳川家の誼も一転、敵対無惨な結末に終わりました。 因果は巡る「信長」「秀吉」の亡き後は同じパタンを辿ったのです。
国宝、世界遺産の姫路城、千姫は元和、寛永期に、このお城のお姫様だった。
     
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戻りまして、大阪城から救出された秀頼室の千姫はその翌年1616年(元和2)播磨姫路初代藩主忠政の嫡男本多忠刻に嫁し播州姫路城の姫君と呼ばれましたが、1626年(寛永13)忠刻の死去により千姫江戸城に帰り出家し、天樹院と号し70歳で没します。
…戦国最後を象徴する女性として天樹院千姫に拘る話は色々あるのですが、大阪城救出の経緯や、津和野藩主坂崎直盛による千姫強奪計画、江戸吉田御殿の怪奇引き込み殺人事件など巷間噂は多数在りますが、おそらく、その真相は爛熟お江戸文化の時代、長屋にくすぶる錦絵師や絵草子書きが生活の糧を求め、人の気をひく珍奇な創作と成ったのでしょう。…
(上)伝通院境内 (下)千姫天樹院墓
     
           
この伝通院は小石川水戸藩邸の裏手にあたりますが、徳川光圀に謀殺された水戸藩江戸家老藤井紋太夫の墓が境内に寂しく佇みます。
小石川水戸藩邸にて元禄七年十一月二十三日光圀が藤井紋太夫を刺殺した模様……
水戸黄門 鈴木一夫著 中公文庫
ことが起こったとき隣室に侍していた玄桐が、憶測や解釈をまじえず、「目のあたりに見たてまつりし趣、書きつけ申すなり」と記録した文章が、『玄桐筆記』の「藤井紋大夫を誅せらること」である。
この日、水戸藩邸では、諸大名、旗本らを招いて能楽の遊宴が催され、多くの客でざわめいていた。 光圀はみずから「千手」を舞い終えて平服に着かえ、鏡の間で休んでいた。
室内には屏風が引きまわしてあったが、光圀はなお障子を閉めさせ、玄桐に命じて、「ほかに用事が無ければ、少し話したいことがあるから来てくれ。もし忙しければ、しいて来るには及ばないが」と、水戸藩の中老職をつとめる藤井紋大夫徳昭に伝えさせた。……玄桐は紋大夫を光圀の前に案内して、自分は一段低くなった次の間に控え、同じ部屋の鏡の間寄りには、ともに西山の山荘勤務の光圀側近の士三木幾衛門と秋山村衛門の両名が控えていた。
紋大夫のすがたは屏風の陰になっているため次の間からはみえないが、そこでは異変が起こっていた。
話の内容までは聞き分けられなかったが、光圀と紋大夫とのあいだでは、何ごとか問答する気配が察せられ、緊迫した空気が流れてきた。
しばらくしてふとのぞき込むと、上座に座っていた光圀の姿がない。「何ごと?」と、控えていた両三名が鏡の間に入ると、ちょうど光圀が紋大夫を取りおさえ、膝で首のあたりを踏み敷き、組み伏せたところだった。
紋大夫は膝頭で口もとを圧追されているので声も立てられない。
こうしておいて光圀は、左右の鎖骨の上のくぼみ、欠盆から一刀ずつ二度、深々と刺しとおした。
…思しめしほど刺したまいて(刺し傷の)小口を紋大夫衣にて押して抜きたまうほどに、血は一滴もこぼれず。「もはやよかるべきぞ」とて立ちのきたまうに、血の胴へ落ちる音ごうごうと聞こえ候いて、そのままこときれぬ。……

事の経緯から光圀は計画的に紋大夫を呼び出して恐らく、手討ちの因果を含め、御存分にと無抵抗の紋大夫を刺殺したのでしょうが、子飼いの家臣に如何なる怨念を持ったのか、光圀は明かさず、「不慮の仕合わせ、老後の不調法」と単なる偶発で押し通しております。
また、この事件の核心に係る記述は水戸藩に全く存在しない不思議があるのです。
恐らく、光圀に人生最大の屈辱をもたらした徳川御三家水戸藩主罷免の怨念に、藤井紋大夫が係っていたのか? ……前へ戻る…    ……先へつづく

崇源院お江与の方》
(7) 春日局に係わる噂話
(6) 軌跡の接点 母娘お江与と千姫
(5) 大奥御殿、家光御出生の間
(4) お楽しみの切り口春日の局
(3) 今に残る霊牌所と各地重要文化財群
(2) 幸運奇跡の生涯-2
(1) 幸運奇跡の生涯-1