[探訪][地域]  向島を歩こう(1)−5 墨田区向島  

前回までにスカイツリー建設地と、その東部、南部の遺構をチェックして見ました。今回は向島の観光資源としての墨田堤周辺です。 東京に唯一残る江戸文化と江戸情緒地帯として、更に整備すれば向島の顔として東京圏の人々からも一層注目される地域になるように思えます。
また、向島は戦国武将の復活、復興の地でもあるのです!。    先ずは、墨東向島と、よしみの深い文豪永井荷風さんが昭和11年に書かれた『寺じまの記』に核心の総てが在り、74年後の現在でも多くの史跡が脈々と受け継がれております。
今でも『寺じまの記』の京成乗合自動車のコースを辿れば、江戸情緒と云うか、昔日の東京情緒を実感出来るでしょう。 健脚の方にはゆっくり一日を濃密に楽しめる4キロ余りの行程です。



上)牛島神社の撫で牛…体の悪いとこ「治すギュー」
下)三囲神社の狐…「ウエルカム狐」可愛狐ちゃん

浅草吾妻橋の対岸に金色に輝く巨大な瓢箪のようなものを屋上に飾るアサヒビールの本社の隣に墨田区役所がありますが、ここに源森川(北十間川)の枕橋がありこの橋を渡れば墨田堤界隈の散策起点ともいえます。
枕橋を渡ると墨田公園ですが、ここが有名な水戸藩小梅下屋敷跡です。 一方ここ小梅が隅田川の土手、墨田提の終点になり提上の有名な桜並木の散策路が上流へ長命寺付近の言問団子屋まで遺構として現存しております。 この堤は徳川家康公の江戸入府以前、既に上流熊谷の熊谷堤から延々と当地小梅まで荒川左岸に築かれており、この土手を利用する為に徳川幕府が対岸浅草待乳山から上野台地まで日本堤を築堤した話は有名です。 
理由詳細はHP日本堤の深慮遠謀
それでは墨田公園内を散策し隅田川上流へ、牛の御前”牛島神社から向島見番通りに出て、お江戸を濃縮”三囲神社(稲荷)”、黄檗宗弘福寺長命寺、大倉別邸跡、地蔵坂の地蔵や石碑、白髭神社と東京唯一のお江戸散策コースとなります。
地域、情緒、遺構の詳細はHP内…●墨田堤と土手下に残る江戸水神、白髭、地蔵坂
荷風さんを乗せた京成乗合自動車は白髭橋をすぎ大正通りへ右折して玉の井に行くのですが、白髭橋河畔を更に上流へ辿れば江戸屈指の風光地、水神の森、綾瀬川河口となりますが、現在は東京都の災害避難地として整備されおり、隅田川神社、多聞寺など旧跡は存在しますが隅田川のカミソリ堤防、高速道路高架と防災壁を兼ねた高層都営住宅に囲まれ大川から隔絶された隅田川情緒とは無縁の場所となっております。
なお、”寺じまの記”で京成乗合自動車のバス停大倉別邸前は現在の堤通り1丁目付近でまさに無味乾燥な倉庫地帯の様になっておりますが、実は今の大成建設ホテルオークラなど創業の明治の財閥大倉喜八郎が建てた別邸でこの由緒ある豪壮な建物が船橋ららぽーとの三井ガーデンホテル敷地内に今では使われる事もなく移築存在しておりました。
本来この建物は向島墨田堤にあれば、風趣を更に際立たせる文化財ですが!!、如何なものでしょうか?。
話が飛びまして向島に係わる歴史上の人物として、足利幕府将軍足利尊氏鎌倉幕府将軍源頼朝戊辰戦争五稜郭の指揮官幕臣榎本武楊などですが、まづは足利尊氏が武蔵野合戦で敗走し隅田川を渡り向島に布陣して再起、新田勢の息の根を止める戦勝の起点向島太平記の舞台です。
源頼朝も挙兵に失敗房州に逃れ国府台で再起し数万の大軍を指揮して隅田川向島から石浜に渡り鎌倉を目指し戦勝した由緒ある向島と云えます。
足利尊氏源頼朝向島の詳細は……HP内鳩の街、今戸、待乳山
御存知、新撰組土方歳三と共に函館戦争戦った幕臣榎本武楊ですが向島との接点は…、明治新政府の顕官の代表ですが、農商務大臣の時、足尾鉱毒事件を解決出来ず自責の念強く辞任し、以後公務から引退して向島で余世を過ごしております。
しかし、彼の真骨頂はやはり維新の戊辰戦争函館五稜郭にいたる経緯でしょう。 彼は幕臣の倫理で行動し生き残ったとは言え、輝かしい武士の一人と云えると思います。 ……次へ続く

向島を歩こう》 
(5) 世界一のスカイツリーと東武鉄道
(4) 牛島神社の撫で牛談義
(3) 江戸石工文化の魅力
(2) 御祈願 向島三囲神社
(1) 墨田区向島